東藝術倶楽部瓦版 20180816:仕え始めた時代と官位で決まる「旗本の家格」

 

おはようございます。 しばらくの間、お休みをいただきました。父親の一周忌と新盆を兼ねた法事も無事終わり、まさに長野までとんぼ返りで、その間も電話やメールで部下への指示と資料作りと気の休まることのない夏休みでした。今日からまた出勤で、朝から晩まで忙しい日々が続きます。

 

さて、本日は「旗本の家格」について紹介していきたいと思います。旗本は、徳川家直参で1万石未満の家臣のうち、御目見え以上であることは以前紹介した通りです。知行の最低ラインは100石前後であったようです。その旗本の中でも徳川氏に仕え始めた時代によって、分類されることがあります。古い時代からいえば次の通りです。

 

三河譜代(安城譜代、岡崎譜代)

遠州譜代

駿河譜代

甲州譜代

信州譜代

関東譜代

 

以上のような譜代については、譜代大名でも紹介しましたが、こうした仕え始めた時代によって家格が決まってくるのは旗本においても同様でした。もちろん、関ヶ原の戦い以降に家臣になった者のなかでも、才能や名家出身ということで旗本になった例もあります。そして、旗本から大名に昇進した例も多くはありませんがあります。

旗本は基本的に代々世襲が許されており、将軍から与えられた知行地の石高によっても家格が決まっていました。3,000石以上の上級旗本を「寄合」、この寄合と2,000石以上で守名乗りができた者を「大身旗本」と呼んでいたことは以前説明した通りです。また、これとは別に「高家」という家格があったことも既に説明した通りです。

 

旗本の家格を示す概念に「布衣(ほい)」というものがあります。本来、布衣というのは平安時代の中流階級の都人のお洒落着のことを指していたようですが、それが後に模様や裏地のない質素なものを指すようになったものです。これを江戸幕府が元和元年(1615年)に服制を定め、布衣が旗本の礼装に採用され、更には旗本の家格を示すようになりました。布衣は、追って説明する官位の「六位」に叙位された者の扱いとされ、武家官位では最下層となっていました。

 

官位については改めて紹介しますが、本来は幕府が朝廷に対して奏請し、朝廷からの口宣(くぜん)、位記(いき)授与等の正規な叙位手続きが必要です。しかしこの布衣については、幕府内において正規の手続きなしに六位に叙位された者として扱われていました。

 

布衣(六位)の上位に当たるのが「五位」の「諸大夫(しょだいぶ)」です。古来、「四位」までしか昇進できない低い家格の貴族のことを指していたようですが、江戸時代になると親王家や摂家の家政を司る家司(けいし)の職名となり、その官位が五位であったことから、五位に任じられた大名や旗本が諸大夫と呼ばれるようになりました。こちらは朝廷からの正規な手続きを受けた後に、叙位されることになっていました。

 

布衣の六位は武家官位の最下層とはいえ、官位ですから旗本の中でもその家格は決して低くはありません。幕府の重職に就くにも「布衣以上」という条件が付いていたほどですから、如何に布衣としての家格が重要視されていたかが分かります。一方、御目見え以上であっても、官位のない旗本は「平士(へいし)」と呼ばれており、幕府の重職に就くことはほとんどなかったものと思われます。

 

高見澤

2018年8月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月16日 07:20に書いたブログ記事です。

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