東藝術倶楽部瓦版 20180820:実質的な官位任命者は将軍-「武家官位」

 

おはようございます。ここ数日は比較的涼しい日が続いています。東京は、今は曇っていますが、この後雨になる予報です。台風19号に続き、20号がまた西日本に向かうとの予測、更には世界各地で頻発している地震の動きも気になるところです。

 

さて、本日は武士の家格を決める際に重要な判断基準となる「武家官位」について紹介したいと思います。日本において官位とは、役人としての役職である「官職」と、その人の貴賤を序列で表す「位階」の双方を総称した呼び名です。それぞれの官職には相応の位階に叙位されていなければならず、それを「官位相当」といいます。この制度が「官位制(官位制度、官位相当制)」と呼ばれるものです。

 

日本の官位制は、もともとは中国の政治・行政制度の影響を受けたものですが、日本に伝来して以来、独自の発展を遂げてきました。官吏を序列化する制度の始まりは、推古天皇11年(603年)に聖徳太子が定めた冠位十二階だと言われています。その後、大宝元年(701年)に成立した「大宝令」と養老2年(718年)に成立した「養老令」に記された『官位令』によって官位制が確立しました。

 

官位制の本来の目的は、位階と官職を関連付けて任命することにより、官職の世襲を廃して適材適所の人材登用を図ることにありました。とはいえ、高位者の子孫には一定以上の位階に叙位する「蔭位の制(おんいのせい)」なるものが設けられるなど、実質的には形骸化していたのが実情です。結果的に官位は血脈的な尊卑を表すようになり、家柄、身分、家格を示す標準としての権威となっていました。

 

本来、官位は朝廷から叙任されるものでしたが、鎌倉時代に武家政権が誕生すると、御家人の統制のために将軍の許可なく任官することが禁じられます。武家の叙位任官は幕府から朝廷へ申請する「武家執奏(ぶけしっそう)」が制度化され、室町幕府へと引き継がれます。これが戦国時代から安土桃山時代にかけて武家官位として成立していくのですが、諸国の有力大名が相次いで高位の官位に任官されてしまうと、官位自体が不足することになり、公家の昇進体系が麻痺するという事態が生じてしまいました。

 

そこで徳川家康は、江戸幕府の開幕以降、官位を武士の統制手段として利用すべく制度改革に乗り出します。慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙とすることが義務付けられ、慶長16年(1611年)に武家官位を「員外官(いんがいのかん)」として「公家官位」と切り離され、「禁中並公家諸法度」により制度化されました。これによって武士の官位保有が公家の昇進を妨げとなっていた事態を防止することができるようになりました。

 

江戸幕府においても武家の官位任命者は事実上は将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、必ず将軍の許可を受けなければなりませんでした。形式的な手続きになりますが、先ずは将軍が任じた官位を幕府から朝廷に申請して、天皇から勅許を得る形をとって、はじめて正式な官位が認められることになります。朝廷からの官位叙任を示す文書である「位記(いき)」、「口宣案(くぜんあん)」の発給にあたっては、「従五位下諸大夫」で金十両、「大納言」で銀100枚といったように、天皇に対して金子を進上することになっており、武家官位の授与は朝廷にとって重要な収入源の一つになっていたようです。

 

江戸幕府初期には武家官位を受けていない小大名も少なくありませんでしたが、寛文4年(1664年)の「寛文印知(かんぶんいんち)」によって大名の格式が整備されて以降、ほとんどの大名が官位を受けられるようになりました。

 

次回は、具体的な官位の中身について紹介していきましょう。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月20日 13:39に書いたブログ記事です。

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