東藝術倶楽部瓦版 20180823:将軍謁見のための控え席-「伺候席」その一

 

おはようございます。昨日、日中はかなり暑かった東京都心ですが、それでも朝晩は大分涼しくなりました。台風20号の影響もあり、本日夕方から雨になり、明朝まで続くとの予報です。一日一日とまた涼しくなっていくことでしょう。

 

さて、今回と次回の2回にわたり「伺候席(しこうせき)」について紹介したいと思います。本瓦版でも言葉としては出てきた大名・旗本の家格を表すものですが、ここで少し詳しく解説しておきたいと思います。

 

伺候席とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に謁見する際に順番を待っていた控えの間のことで、「殿席(でんせき)」や「詰所」とも呼ばれていました。大名や旗本の出自、官位、役職等を基に幕府によって定められていて、「大名殿席」とよばれる大名が詰める伺候席には、「大廊下(おおろうか)」、「大広間(おおひろま)」、「溜詰(たまりづめ」、「帝鑑間(ていかんのま)」、「柳間(やなぎのま)」、「雁間(かりのま)」、「菊間広縁(きくのまひろえん)」の7つがありました。また、幕府の役職を持つ旗本の詰所として「菊間(きくのま)」や「芙蓉間(ふようのま)」、「中之間(なかのま)」、「躑躅間(つつじのま)」、「焚火間(たきびのま)」が用意されていました。

 

先ず大廊下は、主に将軍家の親族が詰めていた部屋です。「松の廊下」に面した部屋で「上之部屋」と「下之部屋」の二つに仕切られていました。上之部屋には御三家のほか、江戸初期には三代将軍・家光の血筋である甲府藩、館林藩の「御両典」、江戸中期以降は御三卿の当主もここに詰めるようになりました。下之部屋には加賀藩前田家のほか、江戸初期には福井藩松平家(後に大広間)や古河公方家(足利氏)の末裔・喜連川氏(後に柳間)の当主もここに詰めていました。

 

次に大広間です。ここは外様大名や親藩(御家門、御三家連枝)のうち、位階が四位の大名が詰める部屋でした。薩摩藩島津家、仙台藩伊達家、熊本藩細川家等の国持大名や尾張松平家、紀伊松平家、松江松平家等の親藩がこれにあたります。

 

その次は溜詰です。ここは将軍の執務室である「中奥」に最も近く、臣下に与えられる最高の席といえます。「黒書院(くろしょいん)」に隣接していることから「黒書院溜之間〔松溜(まつだまり)〕」の部屋にその名前の由来があるとされています。将軍家に最も信頼されている重鎮の親藩や譜代の詰所となっていました。会津藩松平家(御家門)、彦根藩井伊家(譜代)、高松藩松平家(水戸連枝)の三家は「定溜(じょうだまり)〔常溜(じょうだまり)、代々溜(だいだいたまり)〕」として代々溜詰が詰所となっており、松山藩松平家(譜代侍従)、姫路藩酒井家(譜代侍従)、忍藩松平家(譜代侍従)等は「飛溜(とびだまり)」といって、位階が五位の間は帝鑑間詰ですが、四品に昇進後に溜詰となる慣わしとなっていました。また、永年老中を務めて退任した大名を「前官礼遇」の形で一代に限って溜詰の末席に詰めることもあり、これを「溜詰格」と呼んでいました。初期の段階では4~5名の定員であった溜詰ですが、江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになり、結果として幕末期には15名近くにもなっていたようです。儀式の際には老中よりも上席に座ることとなっており、本来その格式はかなり高いものでしたが、定員が増えるとともに形骸化していきました。

 

ちなみに江戸城の黒書院は、日常的な行事が行われた間で、毎月1日と15日に行われる将軍への月次御礼に関し、大廊下詰と溜詰の大名に対しては黒書院で、その他の大名は「白書院(しろしょいん)」で行われていました。浅田次郎の小説「黒書院の六兵衛」で名が知られるようになった黒書院は、かなり格式の高い部屋であり、通常であれば一書院番士が留まることなど許されない場所でした。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月23日 07:20に書いたブログ記事です。

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