東藝術倶楽部瓦版 20180831:俸禄は低いが付け届けで豊かな生活-「町方同心」

 

おはようございます。今日で8月も終わり、明日から9月です。今日は9月9日から始まる日本経済界の大型訪中代表団の結団式が、経団連会館で行われます。普段、同じ会社の人でもめったにお目にかかれないような経済界の重鎮が一堂に会するわけですから、ビジネスマンからすればその光景は圧巻といったところでしょうか。世の中を動かすには、古今東西、そうした権威付が必要なのかもしれません。それだけに、気の抜けない1日になりそうです。

 

さて、本日は町奉行所の中でも、前回の与力の支配の下で任に就いていた「町方同心」について紹介してきたいと思います。もともと同心とは、戦国時代に一致団結して主人につくす下級武士のことをこう呼んでいたようで、いわゆる「足軽」を指していました。江戸幕府成立後に、徳川家直参の足軽をすべて「同心」としたため、伊賀同心、甲賀同心、鉄砲百人組、八王子千人同心等の同心職が設置されました。

同心は、与力同様に諸奉行や所司代、城代、大番頭、書院番頭、火付盗賊改等の配下で、与力支配の下で庶務や見回り等の実務を担当していました。特に江戸町奉行所に置かれていた同心は「町方同心」と呼ばれ、南北奉行所にそれぞれ100人(後に140人に増員)の同心が配置されていました。与力が馬上格であったのに対し、同心は「徒歩(かち)格」で、俸禄は30俵二人扶持、一代限りの抱席でしたが、実際には新規採用の形で世襲されていました。能力によっては、稀に与力に昇格する例もありましたが、町奉行所以外への異動は認められていませんでした。

 

俸禄は低かったものの、「年番方」や「吟味方」、「廻り方」などの重要な職に就いた同心に対しては、大名、旗本、豪商などからの付け届けがあり、生活に困ることはなかったようです。また、与力同様に京橋八丁堀に100坪程度の組屋敷が与えられていたことから、「八丁堀」が彼らの通称となっていました。一方で、町方与力と同様に罪人を扱う汚れ仕事であったことから、不浄役人と蔑まれることもあったようです。

 

町方同心の中でも特に庶民に馴染が深かったのが廻り方です。「三廻り」とも呼ばれる警察業務を担当する同心で、通常同心の上には与力がいるのですが、廻り方は町奉行の直接の支配下に置かれていました。廻り方には、巡回・治安維持を担う「定(じょう)廻り同心」が南北それぞれに6名、臨時に各方面に出向く「臨時廻り同心」が各6名、秘密裏に探索を行う「隠密廻り同心」が各2名と、正規の江戸の警察部隊はわずか28名と極端に少なかったことは驚きです。このため、廻り方同心は自腹で非公認の協力者として「御用聞き」と呼ばれる「岡っ引き」と、その配下である「下っぴき」を雇うことで、江戸の治安を保っていたのです。

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月31日 08:08に書いたブログ記事です。

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