おはようございます。ここ最近の週末は、家で原稿書きや翻訳などに勤しむほか、事務所に出勤して業務をこなす日も増えています。来週1週間は経済界の大型訪中団で中国に出張となりますので、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。
さて、本日は「御用聞き」、通称「岡っ引き」について紹介したいと思います。一般に馴染のある岡っ引きという呼び方は蔑称で、御用聞きというのが江戸では正式な呼び方でした。また、関八州では「目明し(めあかし)」、関西では「手先(てさき)」、「口問い(くちとい)」と呼んでいたそうです。御用聞きは、町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者です。
岡っ引きの「岡」とは脇の立場にある人を指し、御用聞きが同心の脇にいて罪人を拘引するところから、岡っ引きと呼ばれるようになったとのことです。また、目明しは「目証し」の意味で、宝永・正徳期(1704年~1716年)に京都で罪人が共犯者を密告させ、その犯罪を証明させることで、その罪人の罪を許したことに、目明しの呼称の由来があるそうです。
廻り方同心が江戸での犯罪を捜査する場合、犯罪者の一部を体制側に取り込み、情報収集等に使役する必要がありました。犯罪者側の社会に通じた者を使わなければ、捜査自体が困難な場合も少なくありませんでした。最初は軽犯罪者の罪を許して手先として使った「放免」がこの御用聞きの起源だったと言われています。もちろん、御用聞きの中には百姓や町人から選ばれる場合もありましたが、やくざ者や地域の顔役である「親分」が採用されることが多かったようです。まさに「蛇の道は蛇」だったのです。本来であれば、取り締まる側と取り締まられる側の両立し得ないはずの仕事を兼ねるという意味で、御用聞きの仕事が「二足のわらじ」の語源になったと言われています。当然、御用聞き稼業だけでは食べていけませんので、彼らは別に生業をもっていました。
もともと素行の良くない者が担っていた御用聞きなので、奉行所の威光を笠に着て恐喝まがいのことを行う者も少なくなく、18世紀に入ると幕府は御用聞きの利用を再三禁止する通達を出しますが、やはり実務上使わざるを得なかったため、幕末までなくなることはありませんでした。幕末には町奉行所配下で400人の御用聞きと、その下で働く「下っぴき」が1,000人ほどおり、最盛期には御用聞き500人、下っぴきを合わせて3,000人にも上ったそうです。
「半七捕物帳」や「銭形平次」などの時代劇でもお馴染みの御用聞きですが、十手の取り扱い方など実際とはかなり異なる部分があるようです。
高見澤