東藝術倶楽部瓦版 20180921:幕末の治安維持のために組織ー「町兵掛」

 

おはようございます。自民党総裁選も終わり、安倍首相が3期連続で総裁を続けることになりました。中国との間では、新聞報道によると10月にも安倍首相が訪中することで調整が行われているようで、それに合わせて行われる経済関係のイベントの準備も水面下で進んでいます。

 

さて、本日は江戸町奉行所の治安維持部隊として、幕末最後に設けられた「町兵掛」について紹介したいと思います。

 

江戸時代末期になり、嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航したのを機に、翌嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結され、一気に外国人の来訪が増えていきます。これを受けて江戸町奉行の中にも専門に外国人に対する役職が新たに設置されるようになります。

 

この町兵掛は、特に外国人に対する治安部隊というわけではありませんが、江戸幕府の支配力の低下に伴い悪化する江戸市中の治安維持のために、江戸幕府が町民から町兵組織を編成させ、その町兵を統率するために与力と同心が配置されたというものです。

 

万延元年(1860年)2月、江戸幕府は治安維持のために番方である先手頭に命じて昼夜江戸市中を巡回させるようになりました。これが慶応3年(1867年)12月に、その役割が江戸町奉行に移管し、ここで町兵組織が編制されたのです。

 

町兵の年季は5年、1年に20両の規定で給金が決められていましたが、実際に支払われたのは毎月1両で、残りの8両は積み立てられて、年季終了時に5年分の積立金として40両が支払われるか、或いは店を構えさせるか選択する条件があったようです。

 

こうした町兵を統率していたのが、「町兵掛与力」と「町兵掛同心」です。町兵は名主の屋敷を屯所として小隊単位で2個大隊が作られ、与力が大隊長、同心が小隊長となっていました。明治元年に江戸町奉行の布告で解散することになりました。

 

高見澤

 

 

 

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2018年9月21日 07:22に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20180920:江戸時代の特別捜査・災害対策本部-「定触役」、「引纏役」、「定中役」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20180925:窮民救済のための町会所の管理監督-「町会所掛」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ