東藝術倶楽部瓦版 20180927:江戸市中の物価統制役-「市中取締諸色調掛」

 

おはようございます。昨夜は激しく降っていた雨も、今朝の出勤時にはほとんどふっていなかったのですが、予報によれば午後過ぎまでは傘の手放せない状態が続くようです。今日ぐらいの涼しさであれば、私にとっては上着なしでちょうどよい感じです。

 

さて、本日は「市中取締諸色調掛(しちゅうとりしまりしょしきしらべがかり)」について紹介したいと思います。先ず「諸色(しょしき)」ですが、これは江戸時代において米を除く日常品の「物価」を指す言葉として使われていました。例えば、インフレによる物価高騰を「諸色高値(しょしきこうじ)、逆にデフレによる物価下落を「諸色下値(しょしきげじ)」と呼んでいました。

 

江戸時代において、一般に米の価格「米価」と諸色は連動するものと考えられていましたが、享保年間(1716年~1736年)には米の豊作にもかかわらず、諸色高値の現象が生じ、これは商人による不当な利益搾取が原因だとして、享保の改革(1716年~1745年)では強制的に価格引き下げを命じたようです。

 

続く寛政の改革(1787年~1793年)で、物価の監視を目的として江戸町奉行所に与力及び同心と町役人によって寛政2年(1790年)に設置されたのが「諸色掛(しょしきかかり)」です。天保の改革(1841年~1843年)では、物価吊り上げの元凶とされていた株仲間や問屋仲間・組合などが解散させられましたが、実際に彼らが物価操作をしていたという十分な証拠はなかったと言われています。

 

実際の物価調査は、江戸府内を21組に分け、それぞれの組の名主である「二十一組名主が行っており、その総監督を務めたのが「市中取締諸色調掛与力」で、その配下として「市中取締諸色調掛同心」がいました。定員は若干名ということで、特に定めはなかったようです。実際の職務は、江戸への物資流入の促進と物価引下げ等を目的とした物価、給金、手間賃などの調査を行うことでした。

 

北町奉行所が米の掛、南町奉行所が魚青物の掛と決まっていたようで、天保の改革以降、南北奉行所に置かれていた諸色に係る役職や定員は少しずつ変化していったようです。いつの時代でも、物価統制は難しい問題です。貨幣経済が続く限り、経済学の理論的矛盾は常に存在することになるのです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年9月27日 08:31に書いたブログ記事です。

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