2018年10月アーカイブ

 

おはようございます。朝晩は大分涼しく感じるようになりました。先週の北京での大イベントが終了したばかりだというのに、1125日にはまた北京で「日中省エネ・環境総合フォーラム」を開催することになっており、1カ月も経たないうちに、また日中両国の大臣が参加する大イベントの準備が始まりました。いつになったら落ち着くことができるのでしょうか? 明日は筑波大学で年1回の講義があり、午前中から筑波に向けて出発することから、明日の瓦版はお休みさせていただきます、

 

さて、本日からは、江戸町奉行の支配下にあった「町役人」について紹介していきたいと思います。町奉行所の支配下にあり、江戸時代の都市部における行政組織という位置付けではありましたが、町役人はいわゆる武士ではなく、身分としては町人に属していました。町役人自体、町政運営のために町人から選ばれたり、町人から雇われていたりしました。

 

その町役人の筆頭であったのが「町年寄(まちどしより)」です。町年寄は江戸のみならず、各地方都市においても「惣(総)年寄」、「町大年寄」、「惣町代」などとも呼ばれた町役人が置かれていました。ここでは、江戸の町年寄、「江戸町年寄」について紹介したいと思います。

 

江戸町年寄は、町役人の最上位に置かれ、武士と同等の権威を与えられた特権をもった町人、いわゆる「特権町人」であり、苗字帯刀や熨斗目(のしめ)着用を許された時期もありました。

 

江戸の町人地は、基本的には江戸町奉行所の支配下にありましたが、実務を行っていたのは3人の江戸町年寄です。この3人の町年寄とは、家格順に「奈良屋」、「樽屋」、「喜多村」で、この3家が代々世襲で町年寄を務めました。これら3家は苗字ではなく、屋号というのが正しいようです。

 

奈良屋の当主は、代々「市右衛門」を名乗っており、その先祖は三河時代の徳川家康に仕えていたようです。その先祖である大館氏一族が大和国奈良に住んでいたことが、奈良屋の屋号となった理由とされています。町年寄への就任は、家康が江戸入府した天正18年(1590年)であったとされています。

 

樽屋の当主は、代々「藤左衛門」を名乗っていました。その先祖は三河国刈谷城の城主・水野忠政です。町年寄への就任は、奈良屋と同じ天正18年(1590年)とされています。

 

喜多村については、その祖先が家康に従って江戸入りした際には武士として奉公していたようですが、初代文五郎が町人になりたいと願ったことに、その発端があるようです。文禄元年(1593年)に喜多村弥兵衛が町年寄に任じられたのが、その始まりとされています。初代弥兵衛の後は彦右衛門、彦兵衛と名乗る者が多かったようです。

 

町年寄は、江戸幕府から拝領された屋敷地に住んでおり、江戸日本橋本町一丁目、二丁目、三丁目の本町通りに面した角地に、それぞれ奈良屋、樽屋、喜多村の屋敷が配されていました。住居は役宅も兼ねており、「町年寄役所」と呼ばれ、そこで各種の執務が行われていました。

 

町年寄の主な職務は、町奉行所から出された触書、すなわち「町触(まちぶれ)」などの令達を各町の「町名主」に伝えたり、町名主の任免、商人・職人仲間の統制、収税、調停等の小訴訟、各種前例調査、人別集計、神田・玉川上水の管理を行ったりなど、多岐にわたっていました。

 

町年寄の収入は、拝領した屋敷の表を町人に貸し出した地代収入と、「晦日銭(みそかぜに)」と呼ばれる古町町人から集めた町政運営費などで、年間1人で500600両ほどになったそうです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。先週は安倍首相の中国公式訪問に合わせて行われた第1回日中第三国市場協力フォーラムに参加するため、北京に出張してきました。首相訪中ということもあり、中々詳細なスケジュールが直前まで決まらず、更に会場が日本の国会議事堂にあたる人民大会堂で行われたものですから、セキュリティや時間、場内外の移動に何かと制限があり、フォーラム当日もかなり混乱した状態でした。会場では、私も中国中央テレビ(CCTV)のインタビューを受け、短い時間ですが放映されました。下記URLをクリックしていただければ、01:16辺りで私が登場してきます。

 

http://tv.cctv.com/2018/10/26/VIDE4wQGyRhnBWYGEqvlb3GK181026.shtml

 

さて、本日は、「牢屋下男」と「牢屋医師」について紹介したいと思います。牢屋敷には、前回紹介した牢屋同心のほかにも、雑用係や医師などが配置されていました。

 

先ず牢屋下男ですが、これは牢屋敷勤務の雑用係で、牢屋同心の支配下にありました。主な職務は牢内の見張り番、門番、炊事、運搬などで、給与は年に1両2分のほか、1日4文の味噌代が給されており、一人扶持で江戸幕府職制給与の中で最低賃金だったといわれています。とはいえ、付届けや囚人の買い物からのピンハネ等で、半年下男をしていると2030両のカネができるといわれ、生活は比較的楽だったようです。

 

身分は抱席の御家人ということで、職を離れると御家人の身分も失いました。服装は、背中に「出」の字の入った法被を着て、股引をはいていました。定員は、当初は30名でしたが、百姓牢が設置された時に38名となり、うち1人が親方、2人が門番、2人が薬部屋に勤め、18人が賄役、残りが牢番として職責が分かれていました。その後、揚屋が増設された慶応元年(1865)年には、定員は48名いたそうです。

 

次に牢屋医師です。元々牢内の囚人を診察する医師は、町医師で仮御雇(かりおやとい)の形式でしたが、後に「牢屋敷手附」と呼ばれるようになりました。医師の数は、「本道」と呼ばれる内科が2人、外科が1人でした。本道医は毎朝夕見廻りで月1両、外科医は隔日廻りで月2分でした。

 

牢屋医師は、囚人の診察・治療のほか、牢問・拷問にも立ち会い、囚人の気付けや傷の手当てもしていました。

 

牢屋敷内には、このほかにも囚人の護送、引き廻し、晒しの実務を行った「非人」がいました。

 

牢屋敷については、以前、町奉行所から「牢屋見廻り方(与力・同心)」が牢屋敷の監察として派遣されてくることを紹介しましたが、牢屋敷監察には町奉行所のほか、目付の目代として「徒目付(かちめつけ)」が、毎日1回見回りを行い、牢屋同心などの役人も検分していました。また、番方の火付け盗賊改め方の与力も見廻っていたようです。

 

高見
 

おはようございます。明後日から安倍総理が中国を公式訪問します。それに合わせて経済界も第三国市場協力フォーラムを開催するのですが、情報がまともに伝わっておらず準備状況も不十分な状態で、大混乱の中、我々も明日から北京に出発することになります。会議の内容(サブスタンス)部隊と後方支援(ロジスティクス)部隊が組織的に完全に分離し、ロジスティクスが理解できないサブスタンス担当が枝葉的なこだわりに執着してロジスティクス担当を混乱させ、更にロジスティクスを経験したことのない担当が何をしていいか分からないままに、ただサブスタンス担当の指示通りに動いているため、しっちゃかめっちゃかになっているというのが実態です。全体を把握できないバランスを欠いたリーダー、そして上の顔色ばかりをみて、フォーラムそのものの目的を見失い、形ばかり取り繕う官僚天国の日本! さて、日本の未来はどうなるのでしょうか...? 明日から今週いっぱい、瓦版を休刊します。

 

さて、本日は「牢屋敷同心」について紹介したいと思います。牢屋敷の役人には、牢屋奉行の下に、「牢屋同心」、「牢屋下男」、「牢屋医師」、「非人」がおり、その他に牢屋敷見廻り方を含む「牢屋監察」がいました。

 

牢屋同心は、牢屋奉行の下で実務を担っていました。当初、牢屋同心は40名でしたが、後に説明する「揚屋敷(あげやしき)」が設置された時に50名、百姓牢ができた時に58名、慶応元年(1865年)の揚屋増設の際には76名いたとされています。牢屋同心には「鍵役(かぎやく)」、「小頭(こがしら)」、「打役(うちやく)」、「数役(かぞえやく)」、「世話役(平番・平当番)」、「書役」、「賄役(牢番)」がいました。

 

牢屋同心の中で最も格式が高いのは40俵四人扶持の鍵役です。鍵役は古参の同心2名が務め、牢内諸口の鍵を管理・所有し、囚人の出入りに関する一切の事務を行っていました。実際には4名の助役が実務を担当していました。

 

小頭は20俵二人扶持で、牢屋の管理と牢屋下男等の指揮・監督を行う役です。定員は2名、下当番所に詰め、牢内の見廻りと囚人の点呼を行っていました。朝5時から夕方5時までの交代制で、世話役から選任されていました。

 

打役は牢問・拷問や敲刑のときの笞打ち役で、遠島、入墨、死刑の執行も行っていました。定員は4名で、2名ずつ交替で勤めていました。俸禄は25俵三人扶持です。

 

 

数役は、囚人の牢問・拷問や敲刑の際に数を数える役です。25俵三人扶持で、打役同心が兼務することもありました。数を間違えると、進退伺いを出すほどの不名誉とされていたようです。

 

世話役は、平番、平当番とも呼ばれ、20俵二人扶持。牢屋の管理役で、囚人の呼出の時の護送、警護を務めていました。定員は4名でした

 

書役の職務は主に牢屋敷内の記録作成で、こちらも20俵二人扶持でした。

 

賄役は牢番とも呼ばれており、書役の下に配置されていたようです。牢内の炊事、囚人への食事、薬、茶、湯水、買い物の世話をしていた役職です。午後8時から午前6時まで寝ずの番をしていました。本牢当番と百姓牢当番の二つがありました。

 

幕末に「同心株」が売買されていた際に、牢屋敷の同心株はかなり安く、湯屋の三助などがその株を買って同心を務めていたそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ最近、やっと秋を感じる気候になったような気がします。春もそうだったのですが、今年の秋も短く、一気に冬到来の寒さになるのではないかと、心なしか寂しさを感じる今日この頃です。

 

さて、本日は「牢屋奉行(ろうやぶぎょう)」について紹介したいと思います。前回の牢屋見廻り方のところでもお話しした通り、江戸市中で牢屋といえば現在の小伝馬町にかつてあった「伝馬町牢屋敷」のことを指します。牢屋敷は、今でいえば刑務所というよりは、未決囚を収監し死刑を執行する拘置所に近い性質をもった施設といえるでしょう。

 

この牢屋の長官ともいえる役職が牢屋奉行で、「囚獄(しゅうごく)」とも呼ばれていました。この役職は代々「石出帯刀(いしでたてわき)」の名で世襲されていました。初代石出帯刀は、下総香取郡(千葉市若菜区)出身で、元々は本多図書常政と名乗り、番方の大御番を務めていましたが、徳川家康が江戸入府の際に罪人を預けられ、それ以来この職を務めるようになり、石出姓に改めたと言われています。

 

牢屋奉行は町奉行の配下に属していて、その主な職務は牢屋役人である同心や下男の支配、牢屋敷並びに収監者の監督・管理、各牢屋の見廻り、収監者からの訴えの聞き届け、牢屋敷内における刑罰執行や赦免・宥免の立会などでした。

 

家格は旗本ではあったものの、譜代・役上下(やくかみしも)・御目見以下で、旗本としては最低レベルの扱いとなっていました。御目見え以下で登城が許されていないという意味では、実質的には与力に近い地位だったのかもしれません。牢屋奉行は、牢屋敷内に拝領地を与えられ住んでおり、家禄は300俵、人によっては報償や役料の形で十人扶持が下されています。服装は麻裃で、供回りは槍持、挟箱持、草履取若党が付いていました。

 

歴代の石出帯刀の中で、最も高名な人物として「石出吉深(いしでよしふか)」〔元和元年(1616年)~元禄2年(1689年)〕がいます。明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火(振袖火事)の際に、牢屋敷の収監者に対して独断で「打ち切り」と呼ばれる期限限定の囚人解放を行い、収監者の命を救った業績があります。その数は120人~130人といわれ、収監者全員が約束通り戻ってきました。本来であればそのような権限がなかったにもかかわらず、自ら罰を受ける覚悟で英断を下し、その心意気に収監者が応えたというのですから、どこか心を打たれる話でもあります。

 

この処置については、幕閣も追認することとなりました。また、戻ってきた収監者に対しては、吉深が罪一等の減刑を幕府に嘆願し、収監者全員の減刑が実現しました。これ以降、江戸時代を通じて「打ち切り後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に減刑無し)」とする制度が慣例化されました。この制度は、現行の法律にも活かされています。

 

また、吉深は歌人、連歌師、国学者としても重要な業績を残しており、江戸の四大連歌師の一人にも挙げられています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日はちょっとした野暮用で事務所に来ることができず、瓦版も休刊とさせていただきました。今週は、中国からの研修団を2団受け入れ、1団は最近の日中経済関係情勢、もう1団は日本の自動運転実現に向けた行動計画について、いずれも中国語で講義を行いました。質疑応答を含め、専門家を相手に2時間もしゃべりっぱなしというのは、さすがに疲れます。私自身、自動運転は専門外なのですが、今年は経済産業省からの委託事業を受けて調査しているところなので、対応せざるを得なかった次第です。

 

さて、本日は「牢屋見廻り方」について紹介したいと思います。江戸において「牢屋」といえば、小伝馬町にあった「牢屋敷」のことを指します。この小伝馬町牢屋敷については、改めて説明の機会を設けます。

 

実際に、この牢屋敷において囚人に対する総監督と刑罰の宣告・執行を行っていたのは「囚獄(しゅうごく)」と呼ばれる「牢屋奉行」です。牢屋奉行の下には、それぞれの役割を担う「牢屋同心」と雑用係、意思などがいました。この牢屋奉行については、次回詳しく説明したいと思います。

 

牢屋見廻り方の主な役割は、小伝馬町牢屋敷内の事務処理と牢屋敷の監督でした。牢屋敷自体が江戸町奉行所の管轄下にあったことから、町奉行の目代(もくだい)〔代理〕として、「牢屋見廻り与力」とその配下の「牢屋見廻り同心」が、毎日牢屋を見廻っていました。

 

牢屋見廻り方が創設されたのは享保3年(1718年)で、与力の定員は南北奉行所それぞれ1騎、同心はそれぞれ2名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は小雨が降っていましたが、事務所に着く頃には止んでいました。今日は降ったり止んだりの予報で、気温も以前ほど上がらない予想です。人間社会の混迷は続いていますが、季節は決まった通り移り変わっていきます。少しずつ発展しながら循環を繰り返す。これが宇宙の真理なのかもしれません。人間もかくあるべきだと思いたいところです。

 

さて、本日は幕末の環境変化に伴って町奉行所内に設置された役職について紹介していきたいと思います。幕末の環境変化といえば、やはり黒船来航ですね。つまり、新たに外国との関わりを担う役職が、江戸町行政においても急遽必要となっていったのです。

 

最初に紹介するのは「外国掛方」です。外国掛方は他の役職と同様に「外国掛与力」と「外国掛同心」から組織されていました。設置されたのは、安政4年(1657年)11月に同心4名を任命したのが最初だったようです。外国掛方は外国人に対する事務を担当していました。定員についてはその後増員され、万延元年(1860年)には一方の奉行所だけで外国掛下役が54人とされていたようです。しかし、その後の外国奉行の設置により町奉行所の負担は軽減され、慶応元年(1865年)には与力5騎、同心5人となりました。

 

次に紹介するのは「開港掛方」です。開港掛方も同様に「開港掛与力」と「開港掛同心」から構成されていましたが、定員については不明です。設置されたのは安政5年(1658年)で、江戸や横浜の開港と開市の事務を担当していました。

 

幕末に新設された外国人居留地の事務などを担当したとされる「外国人居留地掛方」という役職も、同じ時期に設置されています。外国人居留地掛方も「外国人居留地掛与力」と「外国人居留地掛同心」から組織されていました。具体的な職務や定員についての詳細は不明です。

 

もう一つ、直接的に外国との関係はなさそうですが、幕末に「御国益御仕法度掛方」という役職が設置されています。御国益御仕法度掛方も同様に「御国益御仕法度掛与力」と「御国益御仕法度掛同心」から組織されていました。この役職の職務については、その名称から国益と法律に関する実務を担ったものと推測されますが、その詳細は不明です。国益というからには、間接的には何らかの形で外国との関わりがあったのかもしれません。この役職の定員についても不明です。

 

高見澤

 

おはようございます。今、世界中で物騒な事件が多発しています。サウジアラビアの政府批判を繰り返してきたジャーナリストが、トルコにあるサウジの総領事館に入った後、行方不明になる事件が起きました。一つの批判がINSを通じて瞬時に世界中に拡散するリスクを懸念する政府当局ですが、現在のIT技術の発展による情報拡散を食い止めることは難しいと言えるでしょう。その反面、顔認証などを使って監視社会が助長される可能性も小さくありません。これまで誰も経験したことのない社会、さあ、これから地球の人類はどうなっていくのでしょか?

 

さて、本日は「本所方(本所掛)」について紹介したいと思います。本所方は「本所見廻り」とも呼ばれ、本所・深川一帯に関する事柄を担当していた役職です。

 

明暦の大火〔明暦3年(1657年)〕後に、防災の意味もあって大川(隅田川)に両国橋が架けられると、それまで江戸の範疇に入っていなかった大川の東側にも市街地が拡大するようになります。この地域が本所、深川と呼ばれる一帯で、こうした新たな町の広がりに対応すべく設置されたのが「本所奉行」です。

 

しかし、本所や深川が江戸市街として認知されるようになると、行政部門の簡素化が図られ、正徳3年(1713年)に本所の町並地の管轄は江戸町奉行所に移管され、享保4年(1719年)に本所奉行は廃止されます。本所奉行廃止と同時に、武家地は普請奉行、道路・橋・水路は勘定奉行の管轄となりました。

 

この本所奉行の廃止に伴い、町奉行所内に新設されたのが本所方です。本所・深川一帯の一般行政や住民に請け負わせていた事業の管理を行ったほか、勘定奉行所と連携して橋梁・道路の建設、建築物調査などに係る諸般事務実務を行っていました。また、洪水などの風水害時に橋梁保護や住民救助のために「鯨船(くじらぶね)」と呼ばれる快速艇を2隻保有していました。

 

本所方の定員は、「本所方与力」が南北奉行所それぞれ1騎、その配下として「本所方同心」がそれぞれ2名いたほか、「本所方水主(かこ)」と呼ばれる鯨船に乗船する水夫がいました。

 

町奉行所の支配下に「本所道役」と呼ばれる町役が設置されていました。町奉行所の与力や同心はあくまでも管理監督役であり、実際に実務・作業の手配を行うのは、こうした町役でした。元々は本所奉行の支配下でしたが、本所奉行廃止後は江戸町奉行の支配下に移りました。定員は2名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日に東京都内で行われた「第1回自動運転に関する日中官民合同セミナー」は無事に終了することができました。金曜日お昼のNHKニュースでその模様が報道され、日本自動車工業会と中国自動車工業協会との間で覚書の調印式が行われた場面で、私の姿が映っていたと聞きました。ちょうどその時はVIP昼食会の司会を務めていたので、ニュースなど見ているヒマもありませんでしたが、NHKニュースを見ていた某民放局の友人が教えてくれました。

 

さて、本日は「定橋掛(じょうばしがかり)」について紹介したいと思います。

 

江戸の町が江戸城を取り囲む内堀、外堀と絡み合いながら各所に水路が通っていたことは、すでに紹介してきた通りです。水路があるということは、人や馬が通るために、そこに架かる橋も少なくなかったことは想像に難くありません。

 

江戸の水路・河川に架かる主な橋は、基本的には江戸幕府が普請しています。幕府の経費で架けられた橋を「公儀橋」と呼びますが、江戸市中には125カ所あったとされています。この江戸市中にある公儀橋とその下を流れる河川を管理していたのが、江戸奉行所に置かれていた定橋掛で、「橋廻り」とも呼ばれていました。

 

定橋掛の主な業務は、こうした橋梁の破損の報告、保存・修繕でした。定員は、「定橋掛与力」が南北奉行所それぞれ1騎、「定橋掛同心」がそれぞれ2名となっていました。

 

時代劇などでは、奉行所内で閑職として取り扱われていることもありますが、江戸の人たちにとって橋は生活に直結した重要なインフラでした。ですから、実際には地味ではありますが、非常に重要な役職であったことは間違いありません。

 

高見澤

 

おはようございます。明後日12日は、東京お台場にあるグランドニッコー東京台場ホテルで、「第1回自動運転に関する日中官民合同セミナー」が開催されます。当初、北京での開催を予定していたのですが、中国側の強い要請により、東京で開催することになりました。中国からは工業情報化省の副大臣が参加、日本からも経済産業副大臣クラスの出席を予定しています。明日、午前中に両役所の幹部と現地で打合せ、その翌日は本番と、事務所に戻ることは午後、または夕方になってしまうことから、瓦版も明日、明後日は休刊とさせていただきます。

 

さて、本日は江戸の交通整理舞台として動員された「下馬廻り同心」と「門前廻り同心」について紹介していきましょう。下馬廻り同心、門前廻り同心ともに、どちらも上役としての与力は置かれておらず、いずれも三廻り同心と同様に江戸町奉行直属の役職です。

 

先ず、下馬廻り同心ですが、ここで意味する「下馬(げば)」とは、江戸城大手門前に立てられた「下馬札(げばふだ)」のことを指します。下馬札は、その先へは乗馬での出入りを禁止する立札のことで、江戸城においては、将軍以外はその身分に応じて城内での下馬の制限を受けていました。

 

この下馬廻り同心の役目は、江戸城登城の大名の行列が頻繁に出入りする大手門広場やその周辺の交通の混雑を整理することでした。とはいえ、町奉行所の同心程度の身分では、大名やその家臣に直接指示することは到底できないので、実質的には大名行列を見物するために集まった民衆や、その見物客相手に出店する食べ物の屋台などの整理が主な任務であったようです。定員は南北奉行所それぞれ6名でした。

 

次に、門前廻り同心ですが、こちらは江戸後期に新設された役職で、月番老中や若年寄の屋敷門前の交通整理にあたった役職です。幕政の中枢を担う老中や若年寄は、月番ともなると、大名や旗本、更には御用商人などからの陳情や相談が増えてきます。

 

そこで、幕府は月に何日か「対客日」という陳情が許される日を設けていました。その対客日には、老中や若年寄の屋敷門前が出入りする大名や旗本の供回りで混雑するものですから、その整理にあたるために門前廻り同心が赴いていました。この定員は南北奉行所それぞれ10名とされていました。

 

高見澤

 

おはようございます。この3連休もあっという間に過ぎてしまい、また新たなウイークデイが始まりました。その間に、米国ポンペオ国務長官の北朝鮮訪問、中国でのICPO総裁・孟宏偉氏の突然の拘束、ハイチでのM5.9の地震、ノーベル経済学賞の発表など、世界ではいろいろなニュースが駆け巡っています。こうしたニュースが意味するところが何なのか、いずれ「時」がその真実を明らかにしてくれるでしょうが、それを分かるよう努めないと、益々生き難い世の中になるだけかもしれません。

 

さて、本日は、「硝石会所(しょうせきかいしょ)見廻り方」について紹介したいと思います。

 

「硝石(しょうせき)」とは、硝酸塩鉱物の一種で、化学物質としては「硝酸カリウム(KNO3)」のことです。硝酸カリウムはエジプト、アラビア等の砂漠地方では天然に産出されますが、通常は合成によるものが大部分を占めています。窒素化合物でもあることから、昔から肥料や染料の原料として使われてきました。また、食中毒の原因となるボツリヌス菌等細菌の繁殖を抑える効果があることから、昔から防腐剤・発色剤など食品添加物の「亜硝酸塩」としても利用されてきています。

 

このほか、硝石が重要視されたのは、それが「黒色火薬」の主原料であったからです。黒色火薬は木炭と硫黄に酸化剤として硝石を混ぜることで出来上がる火薬です。雨の多い日本では天然の硝石がとれることはなく、もっぱら「古土法」と呼ばれる古い家屋の床下の土から硝石を抽出する方法がとられていましたが、生産量としてはそれほど多くはありませんでした。

 

一方、富山県の西南端にある「五箇山(ごかやま)」では、天然の草と蚕の糞から硝石を製造する「培養法」が開発されていました。この方法は、古土法よりも効率よく硝石が製造できたために、後に五箇山を支配した加賀藩によって秘匿とされてきました。

 

硝石製造の利点が活かされたのか、江戸市谷の加賀屋敷に「硝石会所」が設けられ、江戸近郊で製造した硝石はこの硝石会所に集められていました。硝石会所へは、鉄砲玉薬支配向きの者が出張して硝石製造法を取り仕切っていたので、その監視役として置かれていたのが「硝石会所見廻り与力」とその配下の「硝石会所見廻り同心」でした。定員は与力が南北奉行所それぞれ1名、同心がそれぞれ2名でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今日は金曜日、明日から3連休の方も多いかと思います。しかし、現在台風25号が東シナ海を北上中で、この3連休中に日本海を駆け抜け、西日本や日本海側、東北・北海道では比較的大きな影響が出そうですので注意してください。私はといえば、相も変わらずのんびりと休む時間はなさそうです。

 

さて、本日は「人足寄場定掛(にんそくよせばじょうがかり)方」について紹介していきたいと思います。「人足寄場」とは、正式には「加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)」と呼び、浮浪者、無宿者、軽犯罪者等を収容した自立支援施設のことを指します。

 

人足寄場については、別の機会に改めて紹介したいと思いますが、ここで簡単に説明しておきますと、寛政2年(1790年)に火付盗賊改方長官を務めていた長谷川平蔵宣以(のぶため)の提案により江戸石川島に設置されました。当初、平蔵が火付盗賊改方にいる間は火付盗賊改が所管していましたが、寛政4年(1792年)に平蔵が退官すると、人足寄場は江戸町奉行所の管轄に入りました。

 

この人足寄場の人足を監督していたのが「人足寄場定掛与力」で、定員は南北奉行所それぞれ1騎、その下に「人足寄場定掛同心」2名がそれぞれ配属されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。 昨夜帰宅したのが夜中の11時近く、食事をしてニュースをみた後、12時過ぎに床に就いたのですが、ウトウトしかけた時に突然の地震アラートが家族全員のスマホ、ガラ携から鳴り響きました。すぐに身構えようと思いましたが、特段の揺れは感じず、気象庁のホームページで確認したところ、千葉県東部と茨城県南部で震度4の地震が観測されたとのことでした。インドネシアなど海外も含め、最近は頻繁に地球規模での災害が続いています。日常の何気ない風景を見るにつけ、今の地球人類に対する地球の怒り、自然の憤りは理解できなくもありません。

 

さて、本日は「猿屋町会所見廻り方」について紹介していきたいと思います。「猿屋町(さるやちょう)会所」については、別途説明の機会を設けたいと思いますが、簡単に言えば、寛政の改革で出された「棄捐令(きえんれい)」による「札差(ふださし)」救済のための貸付機関ということになります。

 

幕府や諸藩の家臣が財政窮乏で苦しんでいたところ、寛政元年(1789年)に松平定信が札差と呼ばれる高利貸商人に対し、一方的に借金の帳消しや利息軽減を命じる棄捐令を出します。しかし、これによって逆に札差が大きな損害を受け、金融業が営めなくなることになり、これを救済するために、幕府が御下げ金2万両を出仕し、江戸浅草猿屋町に資金貸付の役所を設置します。これが「猿屋町御貸付金会所(さるやちょうおかしつけきんかいしょ)」、通称猿屋町会所で、「札差改正役所」とも呼ばれていました。

 

猿屋町会所には、勘定奉行所から勝手方掛7名が出張して札差に資金を貸し付ける業務を行っていました。貸金利息は無利子20年賦のものと、年率で金1両につき銀6匁(もんめ)〔22.5グラム〕で20年賦のものがあったようです。一見固定金利のようにみえますが、金銀相場は相場によって変化するので、実質的には変動金利といえますね。元禄13年(1700年)の幕府の改正によれば、金1両が銀60匁とされていたので、計算上は10%となりますが、実際には6~9%であったようです。この辺りの事情については、時間のあるときにもう少し調べてみたいと思います。

 

そして、この猿屋町会所の勘定方の役人を監督するのが「猿屋町会所見廻り与力」で、その下に「猿屋町会所見廻り同心」が配されていました。定員は、南北両奉行所にそれぞれ与力が1騎、同心が2名とされていました。同心は毎日交替で勤務、与力は随時の勤務でした。

 

高見澤
 

おはようございます。昨日は、急遽、朝食懇談会に出席することになり、瓦版をお休みさせていただきました。ご理解の程、よろしくお願い致します。10月に入りすでに3日目、台風24号による停電が一部の地域でまだ復旧していない中、本庶佑氏のノーベル医学生理学賞の受賞が報じられ、第4次安倍改造内閣が発足しました。良いニュースもあれば何かと悪いニュースが続く日本ですが、街中に出るたびに悪化の一途をだどっていることがよく分かります。

 

さて、本日は「古銅吹所(こどうふきしょ)見廻り方」について紹介していきたいと思います。江戸時代、全国の銅山から産出した荒銅(粗銅)は大阪に集められ、「大坂銅吹屋(おおさかどうふきや)」と呼ばれる場所で精銅を製造していました。

 

荒銅には少量の銀が含まれることから、灰吹法(南蛮吹)により銀を抽出すると共に、純度の高い精銅が製造されました。精銅は銅銭など国内での需要と共に、海外への重要な輸出品でもあったことから、江戸幕府としては銅の生産・流通を統制する必要があったわけです。このため、大阪銅吹屋仲間を設置して、幕府が管理しやすい体制が出来上がった〔元禄14年(1701年)〕のです。江戸時代の銅については、別途解説する機会を設けますが、大坂銅吹屋の中心であった「泉屋」が後の住友財閥の前身であったことを一言付しておきたいと思います。

 

この大坂にしかなかった銅吹屋を江戸本所の松田甚兵衛宅に新設したのが寛政8年(1796年)のことで、「古銅吹所」と呼ばれました。甚兵衛はもともと味噌醤油問屋を営んでいましたが、幕府に直接融資する御用商人でもあり、幕府からは何かと優遇を受けていたようです。

 

古銅吹所には勘定奉行所勝手方から銅吹所掛の役人が出張して任にあたっていましたが、その役人の監督にあたったのが「古銅吹所見廻り与力」でした。この与力の定員は、南北奉行所それぞれ1騎で、その配下として「古銅吹所見廻り同心」がそれぞれ2名配されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。台風24号は、昨晩遅くから未明にかけて関東甲信地方を横切る形で北日本へと進んでいきました。長野県佐久地方の上空を抜けていったようです。東京都心でもかなり強い風が吹いていましたが、自宅は高台のマンションでしたので、それほどの恐怖は感じませんでした。とはいえ、出勤途中の道には昨夜の風で折れたとみられる小枝や銀杏の実がたくさん落ちていました。これから東北、北海道では注意が必要です。

 

さて、本日は、「御肴青物御鷹餌耳掛与力」について紹介したいと思います。「御肴」とは魚介類等の水産物、「青物」は野菜等の農産物、「鷹餌耳」とは将軍が鷹狩りで使う御鷹の餌をそれぞれ指します。

 

御肴は、江戸日本橋四日市の「御納屋(おんなや)」から江戸城に納入されていました。御納屋には、江戸城御台所賄方から30俵2人扶持の役人(同心)1名が「御納屋買役(おんなやかいやく)」として出張しており、その下に手付という部下が1415名いました。毎日、新場と魚河岸を巡回し、目に留まった魚があると、すぐに袂から鍵を取り出し、その魚に引きかけて、大きな声で「御用」と叫んで、持ち主から御納屋に収めさせました。御用となった魚は1尾1文から10文以内で、天降り式(強制的に)で買い取られ、漁夫にとってはほとんど儲けにはならなかったようです。

一方、青物は神田多町の御納屋から江戸城に納められていました。野菜の代価も魚介類と同じように、時の相場にかかわらず、規定の値段で買い上げられるので、いくらかの損が生じたようです。この損については、多町の問屋仲間で割り付けて負担をしていたということです。

 

鷹餌耳については、御鷹の餌になる小鳥を捕獲する「鳥刺(とりさし)」という職人が、鷹匠に仕えていました。

 

こうした御納屋買役や鳥刺、更には商人を監督していたのが御肴青物御鷹餌耳掛与力です。南町奉行所の年番方与力が兼務しており、同心はいなかったようです。市中取締諸色調掛のところで、物価調査に関して米は北町奉行所、魚青物は南町奉行所が担当していると紹介しましたが、魚と青物についての監視も南町奉行所の与力が兼務していたのは、北町奉行所との業務の棲み分けがあったからなのかもしれません。

 

高見澤

2021年1月

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