東藝術倶楽部瓦版 20181003:銅の統制機関である古銅吹所の役人を監督-「古銅吹所見廻り方」

 

おはようございます。昨日は、急遽、朝食懇談会に出席することになり、瓦版をお休みさせていただきました。ご理解の程、よろしくお願い致します。10月に入りすでに3日目、台風24号による停電が一部の地域でまだ復旧していない中、本庶佑氏のノーベル医学生理学賞の受賞が報じられ、第4次安倍改造内閣が発足しました。良いニュースもあれば何かと悪いニュースが続く日本ですが、街中に出るたびに悪化の一途をだどっていることがよく分かります。

 

さて、本日は「古銅吹所(こどうふきしょ)見廻り方」について紹介していきたいと思います。江戸時代、全国の銅山から産出した荒銅(粗銅)は大阪に集められ、「大坂銅吹屋(おおさかどうふきや)」と呼ばれる場所で精銅を製造していました。

 

荒銅には少量の銀が含まれることから、灰吹法(南蛮吹)により銀を抽出すると共に、純度の高い精銅が製造されました。精銅は銅銭など国内での需要と共に、海外への重要な輸出品でもあったことから、江戸幕府としては銅の生産・流通を統制する必要があったわけです。このため、大阪銅吹屋仲間を設置して、幕府が管理しやすい体制が出来上がった〔元禄14年(1701年)〕のです。江戸時代の銅については、別途解説する機会を設けますが、大坂銅吹屋の中心であった「泉屋」が後の住友財閥の前身であったことを一言付しておきたいと思います。

 

この大坂にしかなかった銅吹屋を江戸本所の松田甚兵衛宅に新設したのが寛政8年(1796年)のことで、「古銅吹所」と呼ばれました。甚兵衛はもともと味噌醤油問屋を営んでいましたが、幕府に直接融資する御用商人でもあり、幕府からは何かと優遇を受けていたようです。

 

古銅吹所には勘定奉行所勝手方から銅吹所掛の役人が出張して任にあたっていましたが、その役人の監督にあたったのが「古銅吹所見廻り与力」でした。この与力の定員は、南北奉行所それぞれ1騎で、その配下として「古銅吹所見廻り同心」がそれぞれ2名配されていました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年10月 3日 07:19に書いたブログ記事です。

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