おはようございます。先週金曜日に東京都内で行われた「第1回自動運転に関する日中官民合同セミナー」は無事に終了することができました。金曜日お昼のNHKニュースでその模様が報道され、日本自動車工業会と中国自動車工業協会との間で覚書の調印式が行われた場面で、私の姿が映っていたと聞きました。ちょうどその時はVIP昼食会の司会を務めていたので、ニュースなど見ているヒマもありませんでしたが、NHKニュースを見ていた某民放局の友人が教えてくれました。
さて、本日は「定橋掛(じょうばしがかり)」について紹介したいと思います。
江戸の町が江戸城を取り囲む内堀、外堀と絡み合いながら各所に水路が通っていたことは、すでに紹介してきた通りです。水路があるということは、人や馬が通るために、そこに架かる橋も少なくなかったことは想像に難くありません。
江戸の水路・河川に架かる主な橋は、基本的には江戸幕府が普請しています。幕府の経費で架けられた橋を「公儀橋」と呼びますが、江戸市中には125カ所あったとされています。この江戸市中にある公儀橋とその下を流れる河川を管理していたのが、江戸奉行所に置かれていた定橋掛で、「橋廻り」とも呼ばれていました。
定橋掛の主な業務は、こうした橋梁の破損の報告、保存・修繕でした。定員は、「定橋掛与力」が南北奉行所それぞれ1騎、「定橋掛同心」がそれぞれ2名となっていました。
時代劇などでは、奉行所内で閑職として取り扱われていることもありますが、江戸の人たちにとって橋は生活に直結した重要なインフラでした。ですから、実際には地味ではありますが、非常に重要な役職であったことは間違いありません。
高見澤