東藝術倶楽部瓦版 20181030:町役人の筆頭格-「江戸町年寄」

 

おはようございます。朝晩は大分涼しく感じるようになりました。先週の北京での大イベントが終了したばかりだというのに、1125日にはまた北京で「日中省エネ・環境総合フォーラム」を開催することになっており、1カ月も経たないうちに、また日中両国の大臣が参加する大イベントの準備が始まりました。いつになったら落ち着くことができるのでしょうか? 明日は筑波大学で年1回の講義があり、午前中から筑波に向けて出発することから、明日の瓦版はお休みさせていただきます、

 

さて、本日からは、江戸町奉行の支配下にあった「町役人」について紹介していきたいと思います。町奉行所の支配下にあり、江戸時代の都市部における行政組織という位置付けではありましたが、町役人はいわゆる武士ではなく、身分としては町人に属していました。町役人自体、町政運営のために町人から選ばれたり、町人から雇われていたりしました。

 

その町役人の筆頭であったのが「町年寄(まちどしより)」です。町年寄は江戸のみならず、各地方都市においても「惣(総)年寄」、「町大年寄」、「惣町代」などとも呼ばれた町役人が置かれていました。ここでは、江戸の町年寄、「江戸町年寄」について紹介したいと思います。

 

江戸町年寄は、町役人の最上位に置かれ、武士と同等の権威を与えられた特権をもった町人、いわゆる「特権町人」であり、苗字帯刀や熨斗目(のしめ)着用を許された時期もありました。

 

江戸の町人地は、基本的には江戸町奉行所の支配下にありましたが、実務を行っていたのは3人の江戸町年寄です。この3人の町年寄とは、家格順に「奈良屋」、「樽屋」、「喜多村」で、この3家が代々世襲で町年寄を務めました。これら3家は苗字ではなく、屋号というのが正しいようです。

 

奈良屋の当主は、代々「市右衛門」を名乗っており、その先祖は三河時代の徳川家康に仕えていたようです。その先祖である大館氏一族が大和国奈良に住んでいたことが、奈良屋の屋号となった理由とされています。町年寄への就任は、家康が江戸入府した天正18年(1590年)であったとされています。

 

樽屋の当主は、代々「藤左衛門」を名乗っていました。その先祖は三河国刈谷城の城主・水野忠政です。町年寄への就任は、奈良屋と同じ天正18年(1590年)とされています。

 

喜多村については、その祖先が家康に従って江戸入りした際には武士として奉公していたようですが、初代文五郎が町人になりたいと願ったことに、その発端があるようです。文禄元年(1593年)に喜多村弥兵衛が町年寄に任じられたのが、その始まりとされています。初代弥兵衛の後は彦右衛門、彦兵衛と名乗る者が多かったようです。

 

町年寄は、江戸幕府から拝領された屋敷地に住んでおり、江戸日本橋本町一丁目、二丁目、三丁目の本町通りに面した角地に、それぞれ奈良屋、樽屋、喜多村の屋敷が配されていました。住居は役宅も兼ねており、「町年寄役所」と呼ばれ、そこで各種の執務が行われていました。

 

町年寄の主な職務は、町奉行所から出された触書、すなわち「町触(まちぶれ)」などの令達を各町の「町名主」に伝えたり、町名主の任免、商人・職人仲間の統制、収税、調停等の小訴訟、各種前例調査、人別集計、神田・玉川上水の管理を行ったりなど、多岐にわたっていました。

 

町年寄の収入は、拝領した屋敷の表を町人に貸し出した地代収入と、「晦日銭(みそかぜに)」と呼ばれる古町町人から集めた町政運営費などで、年間1人で500600両ほどになったそうです。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年10月30日 07:24に書いたブログ記事です。

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