東藝術倶楽部瓦版 20181101:町内のすべての事務を処理した「町名主」

 

おはようございます。「光陰矢のごとし」。時の経つのは速いもので、今日から11月、今年も残すところあと2カ月となりました。昨日は、母校の筑波大学で3時限の講義を行い、そのうち2時限は中国人留学生の大学院生相手に中国語で話をするという、過酷な授業でした。省エネ・環境の話でしたから、浮世絵の話も交えて、江戸の町の循環型社会についても紹介したところ、学生たちは日本の江戸時代についてかなり興味をもったようです。

 

さて、本日は町役人の一つ、「町名主」について紹介してみたいと思います。町名主は、町年寄の下で町年寄を補佐し、各町の自治にあたっていました。身分は、あくまでも町人であり、町の代表者という位置付けでした。

 

江戸の町では、数町かた十数町に一人の町名主が置かれていて、二町~四町を支配する名主を「小名主」、十数町を支配する名主を「大名主」と呼んでいました。名主といっても一様ではなく、それぞれに格があったようです。

 

最も古く、格上であったのが「草創(くさわけ)名主」です。草創名主は、慶長年間(1596年~1615年)に江戸の町が町割りによって町になった際に、徳川家康に従って三河国から江戸入りした名主、或いは天正年間(1573年~1593年)以前から江戸にあった村が御町に編入された際に、家康入府以前からそこに住んでいた名主のことを指します。

 

次に格が上だったのが「古町名主」です。古町名主は、3代将軍・家光の寛永年間(1624年~1645年)までにできた300余りの町を支配していた名主で、一人あたり平均で6、7町を支配していました。正徳3年(1713年)までに移管によって代官支配から町奉行支配に変わった町の名主でもあります。

 

正徳3年以降、移管によって代官支配から町奉行所支配になった新市街の名主を「平名主」と呼んでいます。これら新市街をそれ以前の町に対して「新町」と呼んでいました。また、寺社奉行から町奉行へ移管した町の名主を「門前名主」といいました。

 

町名主の主な職務は、町年寄から伝えられた触書の町民への完全伝達、人別改め、町の防火管理(火の元取締り、火消人足の手配など)、訴状の奥書(おくがき)、家屋敷の買受・譲渡・証文の閲覧など、住民統治のすべての事務作業でした。

 

大岡越前守忠相がこれら名主を17組に分けた時には、名主の総数は264人だったようで、江戸時代には時期によって違いはありますが、一般的には二百数十人の名主がおり、世襲制をとっていました。名主の役料(給与)は、支配町の町内会費から賄われており、支配する町の大きさなどから違いがあったようです。記録によると、弘化2年(1845年)の町名主232人の年間平均役料は53.8両だったとのことです。

 

(左:濱、馬込)(右:米良、村田)

ちなみに、浮世絵等を出版する際に、「改掛名主(あらためかかりなぬし)」による検閲が行われるようになりましたが、この改掛名主は当番制で、町名主の中から選出されていました。出版物の検閲は、町奉行の下部組織としての重要な職務の一つであったわけです。名主印に記されている名主として、米良、吉村、衣笠、濱、村田、村松、渡邊、馬込、村田などの名前の略称が刻印されています。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年11月 1日 08:54に書いたブログ記事です。

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