東藝術倶楽部瓦版 20181102:江戸市中の自治組織-「自身番」

 

おはようございます。朝晩、大分冷え込むようになりました。背広もそろそろ冬服を出そうかと思っているところですが、周りをみると既にジャンバーを羽織って通勤する人もいます。上の娘はかなりの寒がりで、私とは気温に対する感覚がまるで違うので、リビングにいてもすぐに「寒い」といって自分の部屋にこもってしまいます。気温に対する感じ方も人それぞれです。

 

さて、本日は「自身番」について紹介したいと思います。自身番は、江戸時代、江戸や大坂などの町人地に設けられた「番所」、またはそこに詰めていた「番人」のことを指し、いわば一種の自警団組織です。現代の派出所や交番、或いは区役所支部・出張所、町内会、消防団等の役割も兼ねていました。番所は「番屋(自身番屋)」、番人は「番太」とも呼ばれていました。

 

番屋は、一般的には町の東西を突き抜ける大通りに面した四ツ辻の南側角に設置されていました。戸口の腰障子には、右側に「自身番」、左側に町名が記されています。町内の雑多事務の執務場所、町方役人の取り調べ所として使われていました。

 

享保年間(1716年~1736年)に、町人地の各町ごとに設けられましたが、町の規模によっては2、3カ町共同で設置されており、これを「最合(もあい)」と呼んでいました。嘉永3年(1850年)には994カ所の番屋があったと伝えられています。各町は、日本橋を起点として江戸城を取り囲む形で、時計回りに21組に区分けされていました。

 

番屋の運営費用は、自身番の給金も含めて各町が負担しており、江戸時代初期には町の地主自身が番屋で警備にあたっていたため、自身番と呼ばれるようになりました。後に、「町代」や「書役」と呼ばれる下男を雇って番太としていました。

 

自身番の主な職務は、町内の見廻り、不審者の捕縛及び町奉行所への通告、火の番、町奉行所からの町触・差紙(呼出状)の通知・送達、出生・死亡届等の人別帳管理、迷子や行き倒れの世話などです。天保年間(1831年~1845年)の制度では、夜になると「五人番」または「三人番」というメンバーで番屋に詰め、毎夜警備にあたることになっていました。

 

自身番屋には、火事に備えて火の見櫓や半鐘、火消道具が備えられ、不審者や事件に備えて捕物道具等も準備されていました。町中で不審者を捕えた場合には、最寄りの自身番屋に連行し、取り調べが行われ、怪しいと判断された場合には、留置施設のある「大番屋」に連れていかれ収監されました。

 

尚、自身番とは別に「木戸番」がいますが、これについては改めて説明の機会を設けたいと思います。

 

江戸町奉行所の三廻り同心が少なかったにもかかわらず、江戸市中の治安が保たれていたのは、こうした町内組織による自治制度がしっかりと機能していから実現できたものと思われます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年11月 2日 07:28に書いたブログ記事です。

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