おはようございます。先日、中国のメディア"China Net"の記者から、昨日上海で始まった「第1回中国国際貿易博覧会」をテーマに、開幕式での習近平国家主席の演説を踏まえた上で、中国の貿易自由化政策についてレポートを書いて欲しいとの依頼がありました。その後、一昨日になって、更に習主席の演説を聞いて、その感想を"We Chat"で音声で送って欲しいとの追加要望があり、むちゃくちゃな要求だと思いつつも、日本語でよいというので、二つ返事で承諾してしまいました。昨日は、午前中は朝から会議の連続で、習主席の演説をライブで聞くことはできず、昼過ぎに中国メディアが発表した中国語の演説稿にざっと目を通し、コメントの内容をまとめて音声にして送付。この後このコメントをベースに原稿をおこすことになりますが、メディアの記者も上司からの突然の要求に困っていたのだろうと思い、つい情け心から対応してしまった次第です。
さて、前回、前々回と自身番、木戸番ときましたので、本日は「辻番(つじばん)」について紹介していきましょう。「辻」とは、十字路のことを指します。私の自宅の近所に「札の辻」という場所がありますが、江戸時代初期にそこに高札場が設けられ、法令布告などが掲げられたことから、その地名が付けられたそうです。確かに大きな十字路になっています。
この「辻」という字ですが、日本で独自に造られた漢字で、中国語にはありません。「辻さん」という姓の方がいますが、その漢字に使われている「十」の字と意味から、「十」と同じ"shi"という発音で読まれることが一般的です。
話を辻番に戻しますと、辻番は江戸時代に、主に城下町に設けられた治安維持のための警備隊、またはその詰所のことを指します。その詰所が武家屋敷周辺の辻々に置かれたことから辻番と呼ばれるようになりました。
江戸城下において、最初に辻番が置かれたのは寛永6年(1629年)のことです。当時、江戸市中では「辻斬り」と呼ばれる刀の試し切り事件が横行しており、江戸幕府はそれを防止するために、武家屋敷周辺に辻番所の設置を義務付けたことが、その始まりとされています。
この辻番は、自身番と異なり江戸町奉行所の支配下にはなく、江戸幕府が直接支配した「公儀辻番(公儀御給金辻番)」、それぞれの大名が支配した「一手持辻番(大名辻番)」、そして何人かの大名や旗本が共同で設置した「組合辻番(寄合辻番)」の3種類がありました。江戸城下にあった辻番所の数は、元文年間(1736年~1741年)に約930カ所、そのうち650カ所余りが組合辻番であったと言われています。この組合辻番の運営は、後に町人が請け負うようになり、寛政5年(1793年)に「辻番請負人組合」が成立しています。
辻番所は、間口二間(約3.6メートル)、奥行き九尺(約2.7メートル)の大きさで、一般的には武家屋敷の塀を切り開いて建てていました。中には捕物三つ道具を備え、昼夜4、5名が詰めていましたが、辻番の数は、それを設置した武家の石高に応じて定められていたようです。
辻番の主な役目は、それぞれの担当地域の巡回、狼藉者(辻斬り)の捕縛のほか、捨て子、変死、喧嘩などの処理にもあたり、幕府御目付に上申してその指示を受けていました。対象が町人である場合には、江戸町奉行に引き渡していました。
こうして設置された辻番でしたが、泰平の世が続くと事件も減少し、定められた通りの職務を遂行しない辻番が増えていったといわれています。
高見澤