東藝術倶楽部瓦版 20181113:形ばかりの消防組織-「奉書火消」

 

おはようございます。朝晩はめっきり冷えるようになった東京ですが、それでも早朝に歩いてくると少し汗ばむ感じがします。江戸城田安門前の銀杏の葉の色が変わり始めているのを見ると、騒然とした人間社会とは関係なく、静かに過ぎていく時の雄大さを感じざるを得ません。

 

さて、本日は「奉書火消(ほうしょびけし)」について紹介したいと思います。

「奉書(ほうしょ)」とは、古文書の様式の一つで、近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書のことを指します。

 

江戸時代初期は、江戸では火消の制度が定められていなかったことは、前回説明した通りですが、実際に江戸城が火事となった場合には、老中や若年寄が大番組、書院番組、鉄砲組等の旗本に命じて消化活動を行っていました。江戸市中において、大名や旗本の屋敷などの武家地で火災が発生した場合、大名や旗本自身で対応し、町人地では町人自身が消化活動を行うのが通例でした。武家地と町人地は明確に区分されており、慶長18年(1613年)に出された禁令では、町人地の火事に武家奉公人が駆けつけることは禁じられていました。

 

そうしたなか、寛永6年(1629年)に奉書火消の制度が定められます。これは、火事が発生すると、老中の名で奉書を諸大名に送り、諸大名を招集して消化にあたらせる制度です。しかし、このやり方では、火災発生から奉書を用意して、大名に使いを出し、その奉書を受けて大名が家臣を引き連れて火災現場に向かうという手間のかかるもので、緊急を要する火事に対しての効果はほとんど期待できるものではありませんでした。しかも、大名やその家臣は平時から消火訓練など行っていなかったものですから、消火活動も形ばかりのものであったと思われます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年11月13日 10:33に書いたブログ記事です。

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