おはようございます。明日からいよいよ中国広東省深圳、及び北京への出張です。深圳では、中国のベンチャー企業と自動車企業を視察し、自動運転に向けた取り組みを調査してきます。24日に北京に入り、25日の第12回日中省エネ・環境総合フォーラムに出席します。昨日、フォーラムでの主催者側代表としての発言内容について、当協会会長と最終確認しました。まだ未定のことや不確定要素はあるものの、一応できるだけの準備は整えたといったところでしょうか。ということで、帰国が来週火曜日27日ですので、次回瓦版は28日とさせていただきます。
さて、これまでは大名や旗本によって組織された武家火消について説明してきましたが、今回からは町人によって組織された「町火消」について紹介したいと思います。町火消といっても、時代によっていくつかの変遷がありますので、それを時代ごとにおっていきましょう。
江戸時代初期、度重なる江戸の町人地の火災に対応するために、慶安元年(1648年)、江戸幕府は各町に10人ずつの人足を備え、消火に参加した者には褒美を出し、参加しなかった者には罰を与えるとの御触れをだしました。これによって、江戸の町人地で火事が発生した場合、消火に動員された町火消を「店火消(たなびけし)」、又は「駆付火消(かけつけびけし)」と呼んでいました。
とはいえ、この時代の店火消は武家火消のように制度化されたものではなく、あくまでも自衛的な消防組織であり、主に若者によって構成されていたようです。
こうした自衛的組織でしたが、明暦の大火後の万治元年(1658年)に次第に制度化が進み始めます。南伝馬町など23町が火消人足として167人を集め、共同で消火にあたる「火消組合」の設置を取り決めます。この火消人足は町名と印のついた羽織を着用していたそうで、これが後の制度化された「町火消」の原型となったようです。
江戸幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様に火消組合を設けるよう促しましたが、火消人足を常時雇うには負担が大きいことから、23町以外には広がりをみせなかったようです。
高見澤