おはようございます。12月も中盤を迎え、朝晩に限らず日中も風の冷たさが身に沁みる季節となりました。東京は今日の夕方頃から雨が降り始め、明日の明け方には止むとの予報です。日一日と寒くなりますので、体調など崩さないようお気を付けてお過ごしください。尚、明日は朝食懇談会のため、瓦版をお休みさせていただきます。
さて、本日は「江戸時代の消火道具」について紹介してみたいと思います。これまでも、何度も紹介してきたように、江戸の消火方法の主体は、火災の間近のまだ燃えていない建物から壊して延焼を防ぐ「破壊消防」でした。そのため、町火消では一般の町人よりも鳶職人が重んじられたことも、すでに紹介してきた通りです。
火災の早期発見のために、江戸の町には「火の見櫓」や「火の見梯子」が所々に設置されていました。火事を知らせたり、町火消の出動の合図として「半鐘」や「板木」が用いられ、叩き方によって火事場の遠近などが分かるように決められていたそうです。
火災が発生したことが分かると、先ず現場に最初に駆けつけた組の「纏持(まといもち)」が火事場に近い家の屋根に上り、そこを目安に取り壊しを行います。この「纏(まとい)」が江戸消火のシンボルとして、先ずはみられるようになります。当初この纏は、幟(のぼり)型の纏が使われていたようですが、その後に「陀志(だび)」と呼ばれる大きな頭部分と、「馬簾(ばれん)」と呼ばれる細長い厚紙や革を垂れ流したものに変わり、いろは組などそれぞれの組を象徴する纏となっていきます。
高い屋根に上るには「梯子」が必要です。梯子は、梯子持と呼ばれる平の鳶人足よりも上位の者が扱うことになっていて、水を運び上げる足場としても利用されました。梯子の材料は燃えにくいように、水を含んだ新しい青竹で造られていました。
破壊活動に必要な道具としては、「鳶口(とびぐち)」と呼ばれる棒の先に鳶の嘴の形に似た鉄製の鉤をつけた道具、捕物でも使われる「刺又(さすまた)」、鋸などが使われていました。
火消道具には、もちろん消火のための道具もありました。江戸の町中の各所には消火用の水桶が常設されていたほか、「竜吐水(りゅうどすい)」や「独竜水(どくりゅうすい)」と呼ばれる木製の手押しポンプ、「玄蕃桶(げんばおけ)」と呼ばれる二人で担ぐ大桶などは、直接火元や火消人足に水をかけることに使われていました。竜吐水は文字通り、龍が水を吐くように空気の圧力を使って口から水が勢いよく放出され、15メートルほど飛ばすことができましたが、継続的に水を補給できないのが難点でした。これは宝暦4年(1754年)に、オランダ人の指導を受けて長崎で作られたのが最初であったと言われています。
このほかにも、火の粉を吹き払って延焼を防ぐための「大団扇」や、水に浸して使う海草で作られた「水筵(みずむしろ)」、水筵を濡らすための「水箱」なども火事場で用いられていました。
高見澤