東藝術倶楽部瓦版 20181214:明暦の大火後の都市計画-「江戸の防火対策」

 

おはようございます。明後日、1216日(日)から北京出張です。経済産業省からの受託事業、中国内外一体化調査事業の一環として、17日(月)に北京で開催される「第2回日中スマート製造セミナー」に参加し、製造分野での日中スマート化協力に向けた政府への提言をまとめるものです。第四次産業革命の到来が叫ばれて大分経ちますが、依然として新たなビジネスモデルの構築に苦慮している状態です。次回の瓦版の発信は、来週水曜日19日になりますこと、ご了承ください。

 

さて、本日は「江戸の防火対策」について紹介したいと思います。前回、江戸の火事とその原因について説明しましたが、原因が分かれば、当然それに対する備えが可能となります。江戸幕府が主に講じた防火対策として挙げられるのは、消防組織である火消の制度化、放火を抑制するための厳罰化、大名屋敷や寺社の移転による「火除地(ひよけち)」或いは「広小路」の確保、そして瓦葺や土蔵造りの採用による不燃化の推進などです。このうち、火消の制度化についてはすでに詳細に紹介してきているので、ここで説明の必要はないでしょう。

 

先ずは、放火を抑制するための厳罰化です。放火は、江戸の火事の主な原因の一つになっていたことは、前回述べた通りです。幕府が放火犯の取締りに力を入れたことは当然のことで、江戸幕府の役職シリーズでも紹介した「火付改」、後に「火付盗賊改」が幕府によって設置され、犯人の捜査・捕縛を行っていたほか、町人に対しても放火犯の捕縛を奨励し、捕えた者には褒美が与えられました。

 

放火はもちろん重罪であり、原則として見せしめを目的として市中引き回しの上、公開での火罪(火焙り)でした。放火犯に家族がいる場合は縁座(家族・親族に対する連座)として、妻や娘が婢として下げ渡されたり、遠島となったりしたこともあったようです。放火が依頼に寄るものであった場合、依頼者は火罪、実行者が死罪で、放火犯が武士の場合は最高刑で獄門でした。とはいえ、こうした刑罰はあくまでも原則であって、特段の事情がある場合には減刑されることもあり、放火犯が15歳未満の幼年の場合には死罪にはならず、遠島や預置(あずけおき)となりました。

 

明暦の大火によって、江戸城天守や本丸を含む江戸市中の大半が焼失したことで、江戸の再建計画では防火対策を重視し、延焼を防ぐための火除地や広小路などの空間が設けられるようになりました。江戸城内にあった御三家の屋敷を城外に移転、他の大名や旗本の屋敷も移転することで、江戸市中の過密状態が次第に緩和されていきます。移転先の多くは江戸城から離れた場所で、元禄年間(1688年~1704年)以降、大名には中屋敷・下屋敷の用地が与えられました。築地や本所等の新たな埋立地が出来上がると、そこにも武家屋敷が設けられるようになり、町屋の移転も進みました。寺社の多くも浅草、駒込、小石川など外堀の外側に移され、吉原遊郭も今の人形町から浅草の北側に移転しました。

 

江戸市中再建にあたり、屋敷と屋敷の間に広場や空地を設け火除地としたほか、従来の街路を拡幅して広小路として、これもまた延焼防止の役に立ちました。こうした防火を前提とした都市計画の遂行により、江戸の市街地は次第に拡大していきました。

 

慶長6年(1601年)の大火をきっかけに、江戸では屋根を茅葺から板葺にするよう幕府が命じると同時に、大名屋敷をはじめとして瓦葺が流行ります。しかし、明暦の大火では火災の時には瓦の落下により怪我人が続出したことから、瓦葺が禁じられました。その代りに、延焼防止のために茅葺・藁葺の屋根に土を塗ったり、板葺が用いられたりしました。瓦葺の使用が本格的に命じられるようになったのは、8代将軍・吉宗の治世に入ってからでした。享保5年(1720年)に瓦葺の禁令を解き、享保7年(1722年)には、瓦葺、土蔵造り、塗り屋を命じるようになります。塗り屋とは、外側に土を塗った建物のことです。

 

非難の際に持ち出せないものを焼失から守るために、裕福な家では土蔵が造られ、庶民の間では、比較的費用の安い穴蔵が使われていました。土蔵は外側の壁を土で厚く塗り固め、漆喰などで仕上げたもので、屋根は瓦葺であったことから、火災のときでも焼失を免れることも少なくありませんでした。土蔵の一種で、「文庫蔵(ぶんごぐら)」と呼ばれる極めて火に強い構造もありましたが、建築費が普通の蔵の数倍にもなり、あまり普及しませんでした。また、「見世蔵」という店舗や住居そのものを蔵造りにした例もあります。穴蔵とは、読んで字の如く、地面に穴を掘って設けられた地下倉庫のことを指します。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月14日 08:07に書いたブログ記事です。

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