東藝術倶楽部瓦版 20181219:軽い刑罰で済んだ「失火の処分」

 

おはようございます。昨晩、北京出張から帰国しました。今回の出張の目的は、一昨日北京で開催された「日中スマート製造セミナー」への参加で、今後のスマート製造分野における日中協力の方策を検討するための材料集めでした。本日、夕方から経済産業省とその件も含めて、来年度事業を一緒に協議することになっています。今回参加して感じたのは、政府の考え方と民間の意向との間に、かなりの温度差が生じていることです。それぞれ目的が違うので当然といえば当然なのですが...

 

さて、本日は江戸の火事の際の「失火の処分」について紹介したいと思います。前回説明したように、放火に対しては火罪や死罪などの厳罰をもって対処することで、その抑制を図っていましたが、失火については、それほど厳しい処分が下されることはありませんでした。

 

武家屋敷の場合、火元であっても屋敷内で消し止めることができれば、一切の罪に問われることはありませんでした。火事が屋敷内か屋敷外かの判断は、門が焼け残っているか否かが分かれ目だったようです。ですから、武家屋敷では門の防火を特に重視し、延焼しそうな場合には、門の扉を取り外して避難することもあり、また、火事が発生したにもかかわらず、門を閉じて駆けつけた町火消を屋敷内に入れず、自分たちだけで消火して、焚火であったと誤魔化す事例もありました。

 

武家屋敷において失火した場合、大目付に「屋敷換えの差控え」を伺い出なければならず、屋敷外に延焼した際には「進退伺い」を提出することになっていました。通例として失火3回に至ると江戸の外縁部である「朱引外」への屋敷換えになったと言われていますが、明確な規定はありませんでした。

 

町人の失火についても、武家同様に厳しい処分はされませんでした。小さな火災であれば罪に問われることはなく、火災の規模が大きくなれば、それに応じて罪が科せられました。享保2年(1717年)の『御定書百箇条』によると、小間10間(約18メートル)以上が焼失した場合、その火元は10日、20日、30日の「押込(おしこめ)」と呼ばれる禁固刑に定められていました。

 

将軍の外出日である「将軍御成日」の失火は罪が重くなり、小間10間以上の焼失の場合、火元は手鎖50日で、平日であっても火災による被害が3町(約327メートル)以上の場合、火元ばかりでなく、火元の家主や地主、月行事(がちぎょうじ)は押込30日、五人組が押込20日、更に火元からみて風上の2町と風脇の左右2町、計6町の月行事も押込30日と、定められるなど、火元以外にも罪が及びました。

 

他方、寺社からの失火については、幕府としてもかなり配慮していたようです。火元となった場合は「遠慮」7日のみであり、僧侶に対して最も軽い刑が科せられました。遠慮とは、いわゆる軟禁状態のことを指します。将軍御成日や大火に至った場合でも遠慮10日で済まされています。

 

また、寺社の門前町での町人による失火の場合では、小間10日以上の焼失で押込3日で、他の町人に比べ比較的軽い処分となっていました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月19日 09:49に書いたブログ記事です。

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