おはようございます。こう毎日忙しい日が続くと、ゆっくりと季節の移り変わりを堪能する余裕もなく、ただただ時間が過ぎていく虚しさを感じてしまいます。年の瀬が押し迫り、世間では忘年会やらカレンダー配りなどで年末を感じている人もいるでしょうが、そんな世界とは無縁の私です。世間では明日から3連休、クリスマスイブを迎えます...
さて、本日からは「江戸の主な大火」について紹介していきたいと思います。先般、江戸では火事が1,798回発生し、そのうち大火と呼ばれるものが49回と紹介しましたが、実際のところ厳密な記録はなく、正確な数は不明というのが正直なところです。それでも、江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」、「明和の大火」、「文化の大火」については少し詳細にお話ししたいこともあり、本シリーズは数回に分け、時代に沿って紹介していきたいと思います。
江戸で記録された最初の大火は、慶長6年閏11月(1601年12月)におきた火災です。日本橋駿河町より出火し、江戸全域が延焼したということですが、詳細な被災状況は不明です。
寛永16年8月(1639年9月)に江戸城本丸が焼ける火事が発生しています。このとき、二の丸、天守、城櫓は罹災せず、残っていました。
寛永18年1月(1641年3月)、京橋桶町(八重洲二丁目付近)から出火し、烈風により通四町(日本橋一丁目~三丁目)、箔屋町(日本橋三丁目)、檜物町(八重洲一丁目、日本橋三丁目)、大工町(八重洲一丁目、日本橋二丁目)、油町(日本橋大伝馬町)などに延焼した火災が発生しました。焼失した町の数は97町、家屋1,924戸(うち武家屋敷121、同心屋敷56)、死者400人以上というこの大火は「桶町火事」と呼ばれています。消防の陣頭指揮を執っていたいた大目付・加賀爪忠澄(かがつめただすみ)が煙に巻かれて殉職、消火活動にあたっていた相馬藩主・相馬義胤が重傷を負ったのも、この火事でした。江戸の防火体制の見直しが行われ、大名火消が設置されるきっかけになりました。
正保2年(1645年)12月には、日本橋富沢町から出火し、吉原(元吉原)が全焼する火災が発生しています。
慶安元年(1648年)7月、新番・木造俊次の家臣・六右衛門が、主人の屋敷に放火して、主人及び妻子など11人を鑓で突き殺して逐電するという痛ましい事件が発生します。その後、六右衛門は自殺未遂しますが、捕えられて磔刑となりました。
以下、次回に続きます。
高見澤