東藝術倶楽部瓦版 20181225:江戸の主な大火-「承応事件」

 

おはようございます。インドネシアのスンダ海峡に面するジャワ島及びスマトラ島の沿岸で起きた津波による犠牲者は373人に達し、その数はさらに増えるものとみられています。スンダ海峡にあるアナク・クラカタウ火山の噴火による海底の地滑りが原因とのことで、大規模な地震があったわけでなく、突然の津波に住民たちも非難する術がなかったのでしょう。イスラム教徒が多いインドネシアでは、クリスマスを祝うことに反対する勢力もあるようですが、クリスマスが商業活動の活性化を促すこともあって、一般市民の間ではクリスマスムードが高まっていたようです。新たな年を迎えるにあたり、現地の人たちの心情を察するに、何ともいたたまれない気持ちになります。一日も早い復興を願うばかりです。

 

さて、本日は「承応事件(じょうおうじけん)」について紹介したいと思います。承応事件は「承応の変」とも呼ばれる増加する浪人の不満が爆発した事件の一つです。

 

慶安5年9月(165210月)、軍学者を名乗る浪人・別木(戸次)庄左衛門(べつきしょうざえもん)をはじめ、林戸右衛門(はやしとうえもん)、土岐与左衛門(ときよざえもん)、三宅平六、藤江又十郎ら数名が、2代将軍秀忠の正室・崇源院の27回忌が芝の増上寺で営まれるのに乗じて、江戸の町に火を放って騒動を起こして、27回忌の香典を奪い、駆けつけた老中を鉄砲で暗殺する計画を立てていることが発覚しました。

 

計画が発覚したのは、土岐の弟を養子としていた永嶋刑部左衛門嘉林(よしもと)にその計画が漏れ、永嶋が老中・松平信綱に密告したことによるもので、一味は町奉行により捕えられ、江戸市中引き廻しのうえ磔、一族も連座で死刑となりました。また、一味には加わらなかったものの、計画を打ち明けられながら幕府に知らせなかったとして、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も磔に処せられ、別木と交際があった老中・阿部忠秋の家臣・山本兵部も切腹を命じられています。幕府としては、この事件に対し、厳しい処分が下されています。

 

一方、計画を訴え出た永嶋刑部は、もともとは旗本の家来でしたが、恩賞として500石が与えられ、直参となっています。

 

承応事件は、前年の慶安4年(1651年)に起きた由井正雪の「慶安の変」とともに、それまでの武断政治による浪人増加の結果として生じた事件として受け止められ、以後、幕府は文治政治へと方針を変えるきっかかとなりました。承応事件自体、実際には火事にはならなかったものの、放火や幕府転覆を狙った極悪犯として厳しい処分が科せられた事例として、火事のシリーズで取り上げました。

 

尚、慶安5年に発生したにもかかわらず本事件が「承応事件」とされているのは、「慶安の変」と区別するためという理由もあるかと思いますが、事件発生後の5日後に元号が慶安から「承応」に改元されており、承応元年になってから事件が解決したことから、承応事件と名付けられました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月25日 12:04に書いたブログ記事です。

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