東藝術倶楽部瓦版 20181226:江戸の主な大火-「明暦の大火」その①

 

おはようございます。一昨日のニューヨーク市場での株価暴落を受け、昨日の日経平均株価は1,010円安で取引を終えています。昨日はクリスマスでニューヨーク市場はお休み、本日の日本の株式市場の動向がどうなるのか、気になるところです。世銀もIMFも来年度の経済見通しは、今年の景気回復の流れを受けて、概ね堅調に推移するとの見方ですが、一方で米中貿易摩擦やイラン情勢など地政学的リスクによる世界経済への影響が懸念されるところで、状況如何によっては景気が一気に冷え込む恐れも否定できません。

 

さて、本日は江戸最大の被害を出したとされる「明暦の大火」について紹介したいと思います。明暦の大火は、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から翌々日の1月20日(3月4日)に起きた大火で、これにより江戸の大半が被災し、江戸城天守までも焼失する大災害となったものです。この年の十干十二支にちなんで「丁酉火事(ひのととりかじ)」、火元の地名から「丸山火事(まるやまかじ)」、更には出火の原因の一つとされる「振袖火事(ふりそでかじ)」などとも呼ばれています。被害の大きさからも、江戸三大火事の筆頭に位置付けられています。

 

明暦3年1月18日の未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺から出火した火は、同日辰の刻から吹き始めた強い北西の風にあおられて、神田、京橋方面へと燃え広がり、湯島天神、神田明神、東本願寺を焼いて、隅田川対岸にも及びました。このとき、日本橋の埋立地にあった霊巌寺(後に現在の江東区白河に移転)に逃げ込んだ避難民約1万人が火に囲まれて焼死、更に小伝馬町の牢獄が燃え出したことから、町奉行の判断で一時解放された囚人が、脱走と勘違いした浅草橋の役人によって門が閉ざされたために、逃げ場を失った2万3,000人が犠牲となったとされています。この火災は翌19日の深夜2時頃には鎮火しました。

 

19日になっても強風は止まず、同日巳の刻(午前10時頃)、今度は小石川伝通院表門下、新鷹匠(しんたかじょう)町の大番与力の宿舎から火災が発生、小石川、北神田、そして飯田橋から九段へと延焼し、江戸城は西の丸は焼失を免れたものの、本丸、二の丸、三の丸、天守を含む大半が焼けてしまいました。

 

更に19日申の刻(16時頃)、今度は麹町5丁目の在家から出火した火が南東方向の桜田一帯から西の丸下、そして新橋の海岸まで達し、江戸湾沿岸の多くの船を焼いた後、鎮火しました。

 

明暦の大火は、この立て続けに起きた火元3カ所の火事を指します。この火事により焼失した町の数は500800、町民の住宅ばかりでなく、大名屋敷、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数が焼け、死者は諸説ありますが3万とも10万とも記録されています。被害がここまで広がった原因として、前年11月から80日にわたって雨が降っておらず、乾燥しきっていたことに加え、運悪く北西の激しい風が止まなかったことが考えられます。

 

次回は、明暦の大火の失火原因について紹介します。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月26日 08:50に書いたブログ記事です。

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