2019年1月アーカイブ

 

おはようございます。時の過ぎるのもアッという間で、今年もすでに1月が終わろうとしています。正月を迎えたのが昨日のように思えるほど、時間の経つのがますます速く感じるこの頃です。そして肉体は当たり前のように老化現象を迎えます。気持ちとしては、いつまでも若いつもりでも、いつの間にか身体は思うように動かなくなります。これもまた理論的にはよく分からない現象です。

 

さて、本日は「宝暦の大火」について紹介したいと思います。宝暦10年2月6日(1760年3月22日)、神田旅籠町(現在の東京都千代田区外神田1丁目、3丁目)の足袋商の明石屋から出火した火が、北西の風に煽られて日本橋、木挽町を焼き、更に深川から洲崎(現在の東京都江東区東陽1丁目)まで類焼する大火となりました。

 

この火事で合わせて126町(460町という記述もある)が焼け、寺社80カ所、江戸三座の中村座と市村座、更には永代橋などが焼失したといわれています。ちなみに死者数は不明です。この火事は宝暦の大火といわれていますが、火元となった明石屋の名から「明石屋火事」とも呼ばれています。

 

宝暦の大火後、宝暦11年9月17日(17611014日)に、日本橋堺町にあった古浄瑠璃の芝居小屋・薩摩座から出火する火事が発生しました。これにより、中村座、市村座も類焼してしまいました。

 

高見澤

 

おはようございます。今、厚生労働省による統計データの不正問題がクローズアップされ、国会でも盛んに議論されています。アベノミクスを肯定するための偽装であったとか、組織的な誤魔化しではなかったのかとか、与野党対決の格好の材料となっているようです。確かに、統計データによって政策が大きく変わったり、企業などでは事業計画の見直しなどが行われるなど、国民生活に多大な影響が出ることは間違いありません。しかし、こうした統計数字が真に社会・経済の実態を表しているのかといえば、そこは何ともいえません。幸福感というものが数字で表せないように、今の生活を肌感覚で実感して判断してみては如何でしょうか?

 

さて、本日は宝暦年間(1751年~1764年)に起きた「大学火事」について紹介してみたいと思います。延享2年の六道火事、同3年の坪内火事の後、寛延年間(1748年~1751年)から宝暦初期にかけて大火は発生せず、江戸庶民は比較的落ち着いた暮らしができていたようです。

 

宝暦6年(1756年)1月15日、日本橋新木材町(現在の日本橋堀留町)河岸より出火する火事が発生します。この火事では江戸三座の中村座と市村座が焼失してしましました。

 

同年1123日、今度は江戸麹町に屋敷を構えていた朱子学派儒学者の林榴岡(はやしりゅうこう)〔林家4代目、林信充〕邸から出火する火事が発生します。この火事により大名小路(現在の東京千代田区丸の内)や数寄屋橋、木挽町などが焼失し、更に築地から出火した火が西本願寺地内十五カ寺・小田原町まで焼く火事が発生、加えて青山権太原六道の辻から出火した火が三田辺りまで焼く火事も発生しました。この火事が鎮火するのは翌日のことになります。

 

林榴岡は、享保8年(1723年)に大学頭(現在でいえば東大総長に当る)となり、翌享保9年(1724年)に林家を継ぎ4代目となっていて、寛保3年(1743年)には徳川10代将軍・家治の侍講となっていました。宝暦6年11月の火事の最初の発端が榴岡邸であったことから、この火事を大学火事と呼んでいます。

 

高見澤
 

おはようございます。昨晩、中国大使館主催の新年会に参加してきました。日中友好七団体を招いての新年会で、総勢800名ほどが集まったそうです。行われたのは東京港区芝公園にあるタワープリンスホテルです。程永華大使、各七団体の長のほか、河野太郎外相が挨拶を行い、芹洋子女史が「四季の歌」を披露する豪華なものとなりました。七団体の一つ、日本国際貿易促進協会の会長が河野洋平氏ですので、このようなイベントで政治家親子が同席となるのも面白い現象だなと思った次第です。

 

さて、本日は延享年間(1744年~1748年)に起きた二つの火事、「六道火事」と「坪内火事」について紹介したいと思います。

 

延享2年2月12日(1745年3月14日)、千駄ヶ谷の青山六道辻(現在は明治神宮外苑内)から出火した火は、北西の強い風に煽られて広範囲に燃え広がり、白金を越えて品川宿にまで達し、品川宿の半分を焼く大火となりました。これにより1,323人が焼死、2万8,678軒の家屋が焼失したと記録されています。出火した場所にちなんで、この火事を「六道火事」と呼んでいます。

 

延享3年2月30日(1746年4月20日)、今度は築地本願寺脇の坪内権左衛門宅(現在の東京都中央区築地)から出火する火事が発生します。強い南風に煽られて炎は瞬く間に周辺の武家屋敷街から八丁堀、茅場町、小網町へと延焼し、更に大坂町、堺町、芦屋町、村松町、橘町へと延び、大川端(隅田川沿岸)通りから馬喰町、浜町、柳原同朋町(いずれも現在の東京都中央区)を焼き尽くしました。浜町から大川(隅田川)を飛び越えた火は本所、小泉町、横網町、松井町、相生町、亀沢町(いずれも現在の東京都墨田区)に至っています。

 

翌3月1日(西暦4月21日)になっても炎の勢いは収まらず、昼四つ半(午前11時)頃に浅草寺の子院、寿命院に飛び火し、周辺の寺院までも類焼します。また、南側の北馬道町、花川戸町、山之宿町、聖天町、橘場町(いずれも現在の東京都台東区)を灰にして、同日夕方の七つ時(午後4時)頃に小塚原(現在の東京都荒川区南千住二丁目)で鎮火しました。この火事で、江戸三座の中村座、市村座が焼失しています。この火事も火元にちなんで「坪内火事」と呼ばれています。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日の夜遅くに上海から帰国しました。春節(旧正月)前とあって、飛行機の座席は中国人旅行客で満員状態。中国経済が減速しているとの統計データですが、まだまだ中国人の消費意欲は旺盛です。「モノ(物)」への拘りから「コト(事)」への拘りへと、社会・経済の発展に伴って人々の意識も高まっていくというのが、本来の宇宙の流れです。果たして日本は...?

 

さて、本日は享保年間中・後期の大火について紹介していきたいと思います。享保5年(1720年)1月13日、日本橋堺町(現在の日本橋人形町三丁目)から出火した火によって、江戸三座となっていた中村座と市村座が焼失しました。その火事が発生する前々日の11日に、南町奉行の大岡忠相が、飛び火を防ぎ、防火に努めるよう各町名主に訓示したばかりの出来事でした。

 

享保6年(1721年)3月4日、牛込御納戸町(現在の新宿区納戸町)から出火した火によって360余名の焼死者を出す大火が発生しました。被害者の数からいえば、前回紹介した小石川馬場火事より多いのですが、どういう訳か分かりませんが、一般的には小石川馬場火事の方が、享保年間を代表する大火として「江戸十大火事(後日詳述)」の一つに数えられています。

 

同年1210日、今度は神田永富町(現在の千代田区内神田二・三丁目)、三河町(現在の千代田区内神田~司町)から出火した火事によって、またもや中村座、市村座が焼失してしまいました。

 

享保9年(1724年)1月30日、京橋加賀町(現在の中央区銀座の一部)から出火した火は、木挽町の森田座、さらには芝口御門(現在の銀座八丁目)を焼いてしましました。これ以降、芝口御門は再建されることなく廃止となりました。