東藝術倶楽部瓦版 20190107:江戸の主な大火-「明暦の大火」その③

 

新年、あけましておめでとうございます。皆様におかれましては、年始年末は如何お過ごしでしたでしょうか? 帰省された方、旅行に行かれた方、家でのんびりされていた方、仕事で正月どころではなかった方など、それぞれ事情が異なっていたかと思います。私はといえば、今回は帰省せずに、自宅で過ごしました。ここ数年の疲れがどっと出たせいか、仕事も思うように手につかず、年末は自宅の掃除と資料整理に年越し・正月用の買い物、年始は自宅で家族と一緒にテレビ・映画などを見たり、読書したりなど、久しぶりののんびりした雰囲気に浸っていました。とはいえ、やはり仕事のことが頭をよぎると、焦る気持ちにもなってしまいましたが...。さあ、今年も気持ちを新たに、生活や仕事に楽しく取り組んでいきましょう。

 

さて、本日も明暦の大火の振袖供養以外の出火原因について紹介したいと思います。その一つが、火元とされている本郷丸山町の「本妙寺」が実際の火元ではなく、火元を引き受けたという「本妙寺火元引受説」です。

 

真相は、本妙寺に隣接していた老中・阿部忠秋の屋敷から出火したというものです。当日、阿部邸から出火した火が風下にあった本妙寺に燃え移り、さらに江戸市中に燃え広がったというのです。これほど大規模な火災の火元が老中の屋敷であったとなると、さすがに幕府の威信が失墜してしまうので、幕府が本妙寺に対して本妙寺が火元の汚名を受けるよう要請したのだと。

 

こう考える理由として、当時、このような大規模な火事の火元に対して、幕府は厳罰をもって対処してきたのですが、本妙寺に対しては一切のお咎めがなかったばかりか、大火から3年後には客殿と庫裡を、6年後には本堂を復興するなど、元の場所に大火前よりも大きな寺院となったこと。また、大火の10年後には本妙寺が日蓮宗勝劣派(しょうれつは)の触頭(ふれがしら:幕府と宗派の連絡役)に任ぜられています。こうした措置は、異例な厚遇としか言えません。

 

また、実際の火元とされる阿部家からは、大正12年(1923年)の関東大震災に至るまでの260余年にわたり、毎年本妙寺に多額の(明暦の大火の)供養料が奉納されていました。こうした事実を根拠として、本妙寺はこの火元引受説をとっています。

 

もう一つが「放火説」です。放火説にも2つの説があります。その一つが「不逞浪人」によるもの、もう一つが「幕府」によるというものです。当時、人々によって一般的に信じられていたのが不逞浪人による放火説です。明暦の大火の6年前の慶安4年(1651年)には有名な「慶安の変(由井正雪の乱)」が起きていますが、その残党が放火したのではないかというものです。

 

そして、驚くのが幕府放火説です。当時、江戸が急速な発展を遂げるとともに、人口も急速に増えていました。住居の過密化、衛生状況の悪化による疫病の流行、更には治安の悪化などが懸念されるなど、都市としての機能が限界を迎えていたというのです。しかし、新たな都市建設に着手するには、住民の説得や立ち退きの補償など、解決が難しい問題も多く存在していました。そこで、江戸の大火を起こすことで江戸市街を焼け野原にし、その上で新たな都市建設を進めればスムーズにいくのではないかと考えたというのです。

 

実際には天守が焼けるなど、江戸城にも多大な損害が生じていますが、明暦の大火後に新しい都市造りが行われたことは事実です。

 

このように出火原因には諸説ありますが、実際の原因はよく分かっていないというのが本当のところです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年1月 7日 08:36に書いたブログ記事です。

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