おはようございます。長い休みの後は、出勤するのがおっくうになります。昨日の出勤が一番辛く、今日はそれでも少し慣れた感じです。通勤地獄とはよく言ったもので、人影まばらな早朝の地下鉄を利用しての出勤でさえ、テンションが一気に下がります。
さて、本日は明暦の大火が、その後の江戸の町にどのような影響を与えたかについて紹介し、これをもって明暦の大火の締め括りとしたいと思います。
江戸幕府にとって、明暦の大火が財政的に与えた負担はかなり重いものであったことは想像に難くありません。天守が焼けた江戸城では、万治元年(1658年)に天守台(天守の石垣)の工事が完了しますが、保科正之は江戸市中の復興を優先させ、天守建設に反対して、以後天守の再建が行われなかったことは、以前紹介した通りです。このように、明暦の大火が幕府の慢性的な財政赤字のきっかけになったことは間違いないようです。
明暦の大火の際、江戸市中では市民が避難するときに、車輪のついた長持である「車長持」で家財道具を持ち運びだそうとした人が多数いました。このため、各所で交通渋滞が発生し、逃げ場を失って多くの犠牲者を出してしまいました。これ以降、江戸、京都、大坂では車長持の製造販売が禁止されるようになりました。
明暦の大火の際に、小伝馬町牢奉行の石出帯刀吉深が罪人を一時的に解き放つ「切り放ち」を行い、これ以降切り放ちが制度化されたことは、牢屋奉行のところで紹介した通りです。
このほか、町火消制度の確立、火除地・広小路等の設置など、この大火をきっかけに防災都市機能が充実化していったことも、以前に紹介した通りです。
高見澤