東藝術倶楽部瓦版 20190111:江戸の主な大火-「天和の大火」

 

おはようございます。東京都心は風が冷たく感じますが、今朝も良い天気です。昨日も結局は雨が降らず、相変わらず乾燥した日が続いています。東京全体では、週末には短い時間ですが雪も降るとのことですが、都心はみぞれ混じりで、昨年のように積もることはないようです。

 

さて、本日は「天和(てんな)の大火」について紹介してみたいと思います。天和2年1228日(1683年1月25日)午の刻(正午頃)、駒込にある大円寺から出火した火は、下谷、浅草、本郷、神田を焼きつくし、日本橋まで及び、翌朝卯の刻(午前5時頃)まで延焼し続けました。この火災により、最大で3,500人余りが犠牲となり、またもや中村座と市村座が焼失しました。これが天和の大火と呼ばれる災害です。

 

この火事は、別名「お七火事(八百屋お七火事)」とも呼ばれることから、お七という娘が放火した火事のように思われることも多いようですが、実は、お七はこの火事の被災者の一人で、お七が実際に放火した火事ではありません。この火事が、お七が放火するに至る要因とされることから、お七火事と呼ばれているようです。

 

貞享年間(1684年~1688年)に成立した見聞記『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』によると、天和の大火で焼き出された江戸本郷森川宿の八百屋市左衛門の一家は、駒込の正仙院に避難します。この寺での避難生活の中で、市左衛門の娘・お七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になります。やがて店が再建されると、市左衛門の一家は寺を引き払います(天和3年1月25日)が、お七の庄之介に対する想いは募るばかり。

 

そこで、もう一度自宅が焼ければ、また同じように庄之介がいる寺で暮らせることができるのではないかと、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した(天和3年3月2日)のです。幸いにも火はすぐに消し止められ、小火(ぼや)にとどまりましたが、お七は放火の罪で捕縛され、天和3年3月28日に鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑に処せられました。

 

以上が、お七火事といわれる所以の一つのお話しですが、実際のところはよく分かっていません。歴史資料として、江戸時代前期の国学者・戸田茂睡(とだもすい)の『御当代記(ごとうだいき)』の天和3年の記録に、「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」とあるだけで、お七の出自、年齢、放火の動機、処刑の様子も史実として知ることはできません。

 

お七の物語が知られるきっかけとなった井原西鶴の『好色五人女』〔貞享3年(1686年)発刊〕では、お七の父親の名は八百屋八兵衛、避難した先の寺は駒込の吉祥寺、お七と恋仲となった寺小姓の名は小野川吉三郎となっています。また講釈師・馬場文耕(ばばぶんこう)が『近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)』〔宝暦7年(1757年)発刊〕では、お七の父親の名は八百屋太郎兵衛、避難した寺は小石川の円乗寺、お七と恋仲になったのは、継母との折り合いが悪く実家に居られなくて円乗寺に身を寄せていた旗本の次男坊の山田左兵衛となっています。

 

このように、江戸時代の書き物でもそれぞれに脚色された物語となっており、小説や歌舞伎等の見せ物としては楽しめるのかもしれません。しかし、実際にモデルとなった娘がいるのかと思うと、何ともやるせない気持ちになります。このお七の話が、明暦の大火の振袖火事のいわれとして、後の世にその物語が生まれたという説も、あながち間違いではないようにも思えます。

 

高見澤