おはようございます。昨晩、中国大使館主催の新年会に参加してきました。日中友好七団体を招いての新年会で、総勢800名ほどが集まったそうです。行われたのは東京港区芝公園にあるタワープリンスホテルです。程永華大使、各七団体の長のほか、河野太郎外相が挨拶を行い、芹洋子女史が「四季の歌」を披露する豪華なものとなりました。七団体の一つ、日本国際貿易促進協会の会長が河野洋平氏ですので、このようなイベントで政治家親子が同席となるのも面白い現象だなと思った次第です。
さて、本日は延享年間(1744年~1748年)に起きた二つの火事、「六道火事」と「坪内火事」について紹介したいと思います。
延享2年2月12日(1745年3月14日)、千駄ヶ谷の青山六道辻(現在は明治神宮外苑内)から出火した火は、北西の強い風に煽られて広範囲に燃え広がり、白金を越えて品川宿にまで達し、品川宿の半分を焼く大火となりました。これにより1,323人が焼死、2万8,678軒の家屋が焼失したと記録されています。出火した場所にちなんで、この火事を「六道火事」と呼んでいます。
延享3年2月30日(1746年4月20日)、今度は築地本願寺脇の坪内権左衛門宅(現在の東京都中央区築地)から出火する火事が発生します。強い南風に煽られて炎は瞬く間に周辺の武家屋敷街から八丁堀、茅場町、小網町へと延焼し、更に大坂町、堺町、芦屋町、村松町、橘町へと延び、大川端(隅田川沿岸)通りから馬喰町、浜町、柳原同朋町(いずれも現在の東京都中央区)を焼き尽くしました。浜町から大川(隅田川)を飛び越えた火は本所、小泉町、横網町、松井町、相生町、亀沢町(いずれも現在の東京都墨田区)に至っています。
翌3月1日(西暦4月21日)になっても炎の勢いは収まらず、昼四つ半(午前11時)頃に浅草寺の子院、寿命院に飛び火し、周辺の寺院までも類焼します。また、南側の北馬道町、花川戸町、山之宿町、聖天町、橘場町(いずれも現在の東京都台東区)を灰にして、同日夕方の七つ時(午後4時)頃に小塚原(現在の東京都荒川区南千住二丁目)で鎮火しました。この火事で、江戸三座の中村座、市村座が焼失しています。この火事も火元にちなんで「坪内火事」と呼ばれています。
高見澤