東藝術倶楽部瓦版 20190130:江戸の主な大火-「大学火事」

 

おはようございます。今、厚生労働省による統計データの不正問題がクローズアップされ、国会でも盛んに議論されています。アベノミクスを肯定するための偽装であったとか、組織的な誤魔化しではなかったのかとか、与野党対決の格好の材料となっているようです。確かに、統計データによって政策が大きく変わったり、企業などでは事業計画の見直しなどが行われるなど、国民生活に多大な影響が出ることは間違いありません。しかし、こうした統計数字が真に社会・経済の実態を表しているのかといえば、そこは何ともいえません。幸福感というものが数字で表せないように、今の生活を肌感覚で実感して判断してみては如何でしょうか?

 

さて、本日は宝暦年間(1751年~1764年)に起きた「大学火事」について紹介してみたいと思います。延享2年の六道火事、同3年の坪内火事の後、寛延年間(1748年~1751年)から宝暦初期にかけて大火は発生せず、江戸庶民は比較的落ち着いた暮らしができていたようです。

 

宝暦6年(1756年)1月15日、日本橋新木材町(現在の日本橋堀留町)河岸より出火する火事が発生します。この火事では江戸三座の中村座と市村座が焼失してしましました。

 

同年1123日、今度は江戸麹町に屋敷を構えていた朱子学派儒学者の林榴岡(はやしりゅうこう)〔林家4代目、林信充〕邸から出火する火事が発生します。この火事により大名小路(現在の東京千代田区丸の内)や数寄屋橋、木挽町などが焼失し、更に築地から出火した火が西本願寺地内十五カ寺・小田原町まで焼く火事が発生、加えて青山権太原六道の辻から出火した火が三田辺りまで焼く火事も発生しました。この火事が鎮火するのは翌日のことになります。

 

林榴岡は、享保8年(1723年)に大学頭(現在でいえば東大総長に当る)となり、翌享保9年(1724年)に林家を継ぎ4代目となっていて、寛保3年(1743年)には徳川10代将軍・家治の侍講となっていました。宝暦6年11月の火事の最初の発端が榴岡邸であったことから、この火事を大学火事と呼んでいます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年1月30日 09:11に書いたブログ記事です。

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