2019年2月アーカイブ

 

おはようございます。本日、ベトナムのハノイで第2回目の米朝首脳会談が行われます。朝鮮半島の非核化について、どのような議論が展開されるのかが注目されるところですが、正直なところ大きな進展は期待できないと思います。米朝関係をどう見るかですが、個人的には米国の国内対立、すなわちトランプ対旧体制勢力の国際舞台版というのが実態ではないかと思うのですが...。明日は友人の葬儀参列のため、瓦版もお休みさせていただきます。享年60歳、脳内出血という突然の死に、心痛めているところです。

 

さて、本日は幕末最後の大火というテーマで、万延元年(1860年)以降明治に入る前までの江戸の大火を紹介したいと思います。江戸時代も幕末という最後の時代を迎え、西洋列強の影響が江戸の町にも次第に及んできます。戦乱のなかった平和な時代も終わりを告げ、今度は世界を相手に富国強兵による戦乱を起こす時代の幕開けとなっていくのです。

 

万延元年(1860年)8月27日暮六ツ時(午後5時)に、浅草猿若町一丁目より出火した火が鳥越周辺まで延焼し、中村座、市村座、守田座〔安政5年(1858年)に森田座から改称〕も焼失する火災が発生しました。同年9月29日亥の刻(夜9時~11時)過ぎに、今度は吉原江戸町二丁目から出火、遊郭が全焼する火事が発生します。この火事では遊女らが放火犯として逮捕されています。

 

文久2年(1862年)1114日、またもや吉原で火災が発生します。火元は京町一丁目で、この火事でも遊郭が全焼してしまいました。元治元年(1864年)1月26日、今度も吉原で火災が発生、火元は江戸町一丁目で、またもや遊郭が全焼しました。同年4月22日、守田座(浅草猿若町)芝居茶屋から出火、江戸三座が全焼する火事が発生しました。

 

そして、江戸時代最後の元号となる慶応2年(1866年)1111日、吉原江戸町一丁目の大枡屋が火元となる火災が発生、遊郭が全焼していましました。江戸時代最後の大火となるのは、慶応4年5月15日(1868年7月4日)に起きた大村益次郎率いる官軍が上野の彰義隊を攻撃したことに端を発する火事です。上野、下谷(いずれも東京都台東区)、本郷(東京都文京区)付近で火災が発生、焼失家屋は1,200戸に及んだとされています。

 

以上、長きにわたり江戸の大火をみてきましたが、江戸三座を含む芝居小屋や吉原遊郭を巻き込む火事が多いことが分かります。これは、そうした施設が蝋燭の火を多用することから、些細な不注意から火災が発生しやすかったこと、しかも簡易な木造建築であったこともあって、火が燃え広がったものと考えられます。当時、蝋燭は高級品でしたから、おカネの集まる歌舞伎小屋や遊郭でしか多分に使われなかったのでしょうね。

 

高見澤

 

おはようございます。気候も少しずつ暖まり、花粉症の方にはつらい季節となりました。最近では薬物治療が進化したようで、症状を大分抑えられることができるようですが、それでも根本治療はかないません。私は花粉症というほどの症状はでませんが、それでもこの季節はくしゃみや鼻水が少し多めになり、ときどき目も痒くなることがあります。一旦症状が出てしまうと、アレルギーですから治癒することはかなり難しいといえましょう。少しでも症状を抑えるには、習慣性が増幅する薬物に頼るよりも、少しずつ体質を変えていくしかないと思います。その基本はやはり食の改善です。

 

さて、本日は安政年間(1855年~1860年)の大火と「地震火事」について紹介したいと思います。幕末も押し迫ってくると、外国人が頻繁に到来し、世の中も何かと物騒になり、260年にわたって続いてきた平和な時代に陰りが生じてきます。そして火事もまた一向に減ることはありませんでした。

 

嘉永7年11月5日(18541224日)亥の刻(21時~23時)に浅草聖天町(現在の台東区浅草六・七丁目)から出火した火が燃え広がり、猿若町(浅草六丁目)の中村座、市村座、森田座の江戸三座を全焼させ、更に隅田川を越えて本所(東京都墨田区)まで飛び火する火事が発生しました。その直後の嘉永7年1127日(1855年1月15日)に嘉永から安政に改元されています。

 

安政2年(1855年)10月2日夜四ツ時(22時頃)、八丈島付近を震源地とするマグネチュード6.9の地震が発生します。世にいう「安政江戸地震(安政の大地震)」です。この地震については別の機会に紹介しようと思いますが、この地震の直後に各所で火災が発生しました。火はあちらこちらで燃え広がり大火となって、江戸に大きな被害をもたらしました。この火事は安政江戸地震によって発生したことから、「地震火事」と呼ばれました。倒壊した家屋は1万4,346戸、焼失した家屋はそれ以上に上ったものと思われます。死者については3,895人に達したということです。死者については1万、或いは20万人とも書いてある本もありますが、これは誇張しているという見方が多いようです。嘉永7年頃から各地で地震が頻発していたこともあり、この頃は浮世絵の「鯰絵」が大流行したそうです。