2019年2月アーカイブ

 

おはようございます。本日、ベトナムのハノイで第2回目の米朝首脳会談が行われます。朝鮮半島の非核化について、どのような議論が展開されるのかが注目されるところですが、正直なところ大きな進展は期待できないと思います。米朝関係をどう見るかですが、個人的には米国の国内対立、すなわちトランプ対旧体制勢力の国際舞台版というのが実態ではないかと思うのですが...。明日は友人の葬儀参列のため、瓦版もお休みさせていただきます。享年60歳、脳内出血という突然の死に、心痛めているところです。

 

さて、本日は幕末最後の大火というテーマで、万延元年(1860年)以降明治に入る前までの江戸の大火を紹介したいと思います。江戸時代も幕末という最後の時代を迎え、西洋列強の影響が江戸の町にも次第に及んできます。戦乱のなかった平和な時代も終わりを告げ、今度は世界を相手に富国強兵による戦乱を起こす時代の幕開けとなっていくのです。

 

万延元年(1860年)8月27日暮六ツ時(午後5時)に、浅草猿若町一丁目より出火した火が鳥越周辺まで延焼し、中村座、市村座、守田座〔安政5年(1858年)に森田座から改称〕も焼失する火災が発生しました。同年9月29日亥の刻(夜9時~11時)過ぎに、今度は吉原江戸町二丁目から出火、遊郭が全焼する火事が発生します。この火事では遊女らが放火犯として逮捕されています。

 

文久2年(1862年)1114日、またもや吉原で火災が発生します。火元は京町一丁目で、この火事でも遊郭が全焼してしまいました。元治元年(1864年)1月26日、今度も吉原で火災が発生、火元は江戸町一丁目で、またもや遊郭が全焼しました。同年4月22日、守田座(浅草猿若町)芝居茶屋から出火、江戸三座が全焼する火事が発生しました。

 

そして、江戸時代最後の元号となる慶応2年(1866年)1111日、吉原江戸町一丁目の大枡屋が火元となる火災が発生、遊郭が全焼していましました。江戸時代最後の大火となるのは、慶応4年5月15日(1868年7月4日)に起きた大村益次郎率いる官軍が上野の彰義隊を攻撃したことに端を発する火事です。上野、下谷(いずれも東京都台東区)、本郷(東京都文京区)付近で火災が発生、焼失家屋は1,200戸に及んだとされています。

 

以上、長きにわたり江戸の大火をみてきましたが、江戸三座を含む芝居小屋や吉原遊郭を巻き込む火事が多いことが分かります。これは、そうした施設が蝋燭の火を多用することから、些細な不注意から火災が発生しやすかったこと、しかも簡易な木造建築であったこともあって、火が燃え広がったものと考えられます。当時、蝋燭は高級品でしたから、おカネの集まる歌舞伎小屋や遊郭でしか多分に使われなかったのでしょうね。

 

高見澤

 

おはようございます。気候も少しずつ暖まり、花粉症の方にはつらい季節となりました。最近では薬物治療が進化したようで、症状を大分抑えられることができるようですが、それでも根本治療はかないません。私は花粉症というほどの症状はでませんが、それでもこの季節はくしゃみや鼻水が少し多めになり、ときどき目も痒くなることがあります。一旦症状が出てしまうと、アレルギーですから治癒することはかなり難しいといえましょう。少しでも症状を抑えるには、習慣性が増幅する薬物に頼るよりも、少しずつ体質を変えていくしかないと思います。その基本はやはり食の改善です。

 

さて、本日は安政年間(1855年~1860年)の大火と「地震火事」について紹介したいと思います。幕末も押し迫ってくると、外国人が頻繁に到来し、世の中も何かと物騒になり、260年にわたって続いてきた平和な時代に陰りが生じてきます。そして火事もまた一向に減ることはありませんでした。

 

嘉永7年11月5日(18541224日)亥の刻(21時~23時)に浅草聖天町(現在の台東区浅草六・七丁目)から出火した火が燃え広がり、猿若町(浅草六丁目)の中村座、市村座、森田座の江戸三座を全焼させ、更に隅田川を越えて本所(東京都墨田区)まで飛び火する火事が発生しました。その直後の嘉永7年1127日(1855年1月15日)に嘉永から安政に改元されています。

 

安政2年(1855年)10月2日夜四ツ時(22時頃)、八丈島付近を震源地とするマグネチュード6.9の地震が発生します。世にいう「安政江戸地震(安政の大地震)」です。この地震については別の機会に紹介しようと思いますが、この地震の直後に各所で火災が発生しました。火はあちらこちらで燃え広がり大火となって、江戸に大きな被害をもたらしました。この火事は安政江戸地震によって発生したことから、「地震火事」と呼ばれました。倒壊した家屋は1万4,346戸、焼失した家屋はそれ以上に上ったものと思われます。死者については3,895人に達したということです。死者については1万、或いは20万人とも書いてある本もありますが、これは誇張しているという見方が多いようです。嘉永7年頃から各地で地震が頻発していたこともあり、この頃は浮世絵の「鯰絵」が大流行したそうです。

 

安政5年(1858年)1月9日亥の下刻(2220分~23時)、浅草猿若町の森田座より出火する火事が発生します。市村座も焼け、浅草聖天町や瓦町(現在の台東区柳橋一・二丁目、浅草橋一~三丁目)まで延焼しました。同じ年の1115日丑の刻(午前1時~3時)、今度は神田相生町(千代田区)から出火、幅7町、長さ22町、計250町余りを焼く大火が発生しました。この火事で日本橋も半焼しました。

 

安政6年(1859年)2月22日丑の刻過ぎに、青山穏田町(現在の渋谷区神宮前五・六丁目)から出火する火事が発生しました。この火事は、四谷を越えて小石川音羽町まで延焼しました。被害は幅4町、長さ1里8町が焼失し、死傷者も多数出たとされています。

 

高見澤

 

おはようございます。政治的には沖縄県辺野古埋め立ての是非や厚労省による統計偽装疑惑、英国のEU離脱(ブレグジット)をめぐる問題などでもめ、経済的には米中経済摩擦や日系大手企業の英国からの撤退などで混沌としたニュースが新聞紙面を賑わせています。国民や世論を無視した政治経済の運営がこうした事態を招いているわけですが、そもそも政治とは何か、経済とは何かを、今一度原点に返って考え直す必要があります。あまりにも理不尽で不可解な現代社会に、憤りと憂いを感じる今日この頃です。

 

さて、本日は弘化年間(1845年~1848年)の大火と「青山火事」について紹介したいと思います。天保15年(1844年)5月10日暁七ツ時(午前4時頃)、江戸城平河門から出火、江戸城本丸が焼失する火災が発生しました。しかも、火災が立て続けに発生していたことから、天保1512月2日(1845年正月9日)に「弘化」へと改元が行われました。もちろん、改元したからといって、火事が減るものではないと思いますが、これもまた現代人には分からない昔の人々の思いが込められていたのではないかと感じます。

 

弘化2年1月24日(1845年3月2日)丑の中刻(午前1時40分~午前2時20分)に青山権田原から出火した火災が北西の風に煽られて麻布、白金、高輪(いずれも東京都港区)の海辺まで広がりました。この火事による被害は幅10町、長さ38町に及び、大名屋敷115カ所、旗本屋敷285カ所、寺院187カ所、町屋126軒が焼失し、800900人が焼死したとされています。この火事はその火元に由来して「青山火事」と呼ばれています。

 

同じ弘化2年12月5日には、今度は吉原の京町二丁目から出火します。この火事により、遊郭が全焼してしまいました。

 

弘化3年(1846年)1月15日未の下刻(1420分~15時)、小石川馬場向横町(東京都文京区)から出火、日本橋が全焼する火事が発生しました。焼失町数は290町に上り、多数の死者が出ました。この年の3月27日、蛮社の獄〔天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件〕で捕えられていた高野長英が火事に乗じて脱獄するというエピソードがあります(長英は後に捕えられて死亡)。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は、昨晩降っていた雨も止み、明るい月が顔を出していました。今日は昨日ほど最高気温は上がらないものの、安定した天気で、3月下旬並みの気候になるそうです。桜が咲く頃のような陽気でだそうですが、花粉症に悩む人にとっては、これからつらい季節になりそうです。明日は朝から立ち寄りのため、瓦版はお休みします。

 

さて、本日は天保年間(1831年~1845年)の大火について紹介していきたいと思います。文政年間(1818年~1831年)には「文政の大火」を始めたくさんの大火が発生していましたが、次の天保年間にも頻繁に大きな火災が発生しています。

 

天保元年1223日(1831年2月5日)、日本橋小伝馬町から出火した火が幅1町半、長さ6町が焼け、中村座、市村座が焼失しました。

 

天保5年2月7日(1834年3月16日)昼八ツ時(午後2時頃)、今回は文政の大火と同じように神田佐久間町より出火します。火元となったのは、佐久間町二丁目の琴師の家でした。この火事は北風に煽られて神田川を越え東神田お玉が池の辺り(現在の千代田区岩本町二丁目)に燃え広がり、東は両国矢の倉辺り、西は日本橋方面から八丁堀・築地辺りまで火が至ったようです。火事は2月13日(3月22日)まで断続的に発生したそうです。この火事により、中村座、市村座が類焼、焼失町数は480町余り、焼死者は4,000人余りとなる大災害になりました。この火事が起きた年が「甲午(きのえうま)」の年であったことから「甲午火事」と呼ばれています。


 

天保6年(1835年)1月25日、吉原角町の堺屋から出火、郭中が焼失したのに続き、同年2月21日にも再び吉原角町から出火し、この火事でも郭中が全焼してしまいました。また、天保8年(1837年)1019日、今度は同じ吉原の江戸町二丁目から出火した火事により、遊郭が焼失しました。

 

天保9年(1838年)4月7日午の半刻(正午)に日本橋小田原町二丁目から出火、幅9町、長さ23町にわたり燃え広がり、日本橋、神田一帯が類焼する火事が起きました。翌天保10年(1839年)3月2日申の刻(午後4時頃)に小石川茗荷谷五軒町より出火する火事が起きます。この火事は駒込まで延焼し、夜には北本所と麹町から出火するという連続火事が起きてしまいました。

 

天保12年(1841年)10月7日、暁七ツ半(午前5時頃)に日本橋堺町の水茶屋から出火する火事が発生します。幅4町、長さ5町ほどが延焼し、中村座、市村座が延焼してしまいました。この火事により、江戸三座が浅草猿若町(現在の台東区浅草六丁目)に移転を命じられました。

 

天保14年(1843年)4月17日、両国吉川町(現在の中央区東日本橋二丁目)にあった花火屋玉屋から出火する火事が起きます。玉屋は所払いとなり、浅草誓願寺前(現在の台東区西浅草二丁目)に移転しました。

 

高見澤

 

 

おはようございます。東京都心は、昨日夕方から降っていた雨も今は止んで、晴れ間も見えていますが、今日も夕方から雲が多くなり、場所によってはまた雨になりそうな予報も出ています。先月はほとんど降らなかった雨ですが、ここにきて傘を使う日が増えてきています。次第に暖かくなっていくのでしょうね。

 

さて、本日は前回の文政年間の大火の続きを紹介していきましょう。その中には「文政の大火」と呼ばれる比較的大きな火災も含めれています。

 

文政11年(1828年)2月5日、神田多町(たちょう)より出火した火災は、本町、鎌倉河岸、小川町(いずれも千代田区神田周辺で現在も地名が残っているところもある。鎌倉河岸は内神田一丁目)まで延焼しました。翌文政12年(1829年)2月16日、今度は音羽町(文京区)から出火し、巣鴨(豊島区)まで延焼する火事が発生しました。

 

同じ文政12年3月21日巳の刻(午前10時)過ぎ、神田佐久間町二丁目(千代田区)から火災が発生します。火元となったのは材木商・尾張屋徳右衛門の材木小屋で、現在の秋葉原駅の東側の神田川北側一帯で、今も地名が残っています。

 

折しも火は西北の風に煽られて神田川を越え、南側は東神田から京橋(中央区)、新橋、芝(いずれも港区)まで延焼し、東側は両国橋の西際から八丁堀、築地(いずれも中央区)を焼失させ、さらに佃島(中央区)まで至りました。鎮火したのは翌朝のことだったようです。焼失面積は幅20町(約2.2キロメートル)、長さ1里(約4キロメートル)に及び、大名屋敷73カ所、旗本屋敷130カ所、町屋約3万軒のほか、日本橋を含む多く橋や船が焼失、中村座・市村座等の芝居小屋も焼け、死者は2,800人余りに達したとのことです。



この火事が「文政の大火」と呼ばれるもので、出火元にちなんで「神田佐久間町の火事」、又は文政12年が「己丑(つちのとうし、きちゅう)」の年だったことから「己丑の大火」ともいわれています。

 

この佐久間町ですが、この一帯は材木商や薪商が多く、俗称で「神田材木町」とも呼ばれていました。また、火災が多く発生したことから「悪魔町」ともいわれていました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は久しぶりの国内出張で、大阪に日帰りで行ってきました。片道550キロを日帰りで往復するのは、さすがに疲れました。品川から新大阪まで「のぞみ」で2時間16分、昔なら1泊2日の出張も今では日帰りで全く問題なく往復できます。これが江戸時代なら...と考えると、確かに世界は広がったように思えます。しかし、物理的には広がったように見える世界ですが、自然や宇宙と感覚的につながっていた昔の人の方がより多くのものをみることができたのではないでしょうか。

 

さて、本日は文政年間(1818年~1831年)の大火について紹介していきたいと思います。江戸時代も19世紀に入ると、火事の発生が多くなっていきます。人口の増加と町の過密化が火事を助長することになったのですが、防火・消防体制が時代と共に整備されてきたことから、火事による被害は次第に小さなものになっていきました。

 

文政元年(1818年)1017日、浅草山之宿(現在の東京都台東区花川戸一・二丁目、浅草七丁目)から出火した火は、本所扇橋(現在の江東区扇橋)まで延焼しました。翌文政2年(1819年)2月9日丑の下刻(午前2時20分~午前3時)、京橋新肴町(現在の中央区銀座三丁目)から出火、幅4町、長さ10町余りが焼失する大火となりました。このとき、鳶人足同士の喧嘩が発生、134人が処罰されることになりました。

 

文政3年(1820年)1229日には白銀町(現在の東京都新宿区)から出火、火は本所まで至りました。文政4年(1821年)1月12日、上野御山内(現在の台東区)で火事が発生、この火事で尾張名古屋藩と加賀金沢藩の鳶人足が口論となりました。文政5年(1822年)5月4日、京橋木挽町(現在の中央区銀座一~八丁目)の森田座の控え櫓であった河原崎座の楽屋から出火、周辺の町屋が類焼しました。

 

文政6年(1823年)1月12日、麻布古川(現在の港区麻布十番から南麻布二丁目辺り)から出火、火は八つ山(港区三・四丁目)まで延焼し、飛び火により品川本宿(品川区北品川)、鮫洲(品川区東大井)まで焼失しました。同年1225日、糀町(千代田区麹町)から出火、この火事で山王、赤坂、青山(いずれも港区)辺りまで焼失しました。

 

文政7年(1824年)2月1日、神田三川町(千代田区)から出火した火災により日本橋まで焼失。同年2月8日には南新堀二丁目(現在の中央区新川一丁目)から出火。同年4月3日、今度は吉原京町二丁目から出火、遊郭が全焼する火事が発生しました。

 

文政8年(1825年)亥の刻(22時)、日本橋葺屋町から出火する火事が起きます。これにより、市村座、中村座が焼失。元大坂町から住吉町、人形町(いずれも現在の中央区日本橋人形町)まで延焼しました。文政10年(1827年)1月4日亥の刻にも、同じく日本橋葺屋町から出火する火事が発生します。前回と同様に市村座、中村座が焼失し、人形町、甚左衛門町(現在の日本橋人形町一丁目、日本橋小網町)まで類焼しました。

 

文政年間の火事はまだまだ続きます。

 

高見澤

おはようございます。

前回は文化の大火について説明しましたので、本日は文化年間(1804年~1818年)のその他の火事について紹介したいと思います。江戸の大火もいよいよ19世紀に入ってきました。

 

文化の大火が起きたのは文化3年(1806年)3月のことでした。その年の1113日、日本橋葺屋町河岸の髪師・友九郎宅より出火する火事が発生しました。火は堺町、難波町(いずれも現在の中央区日本橋人形町一帯)、蛎殻町に広がり、中村座や市村座が焼失しました。

 

文化6年(1809年)1月1日暮六ツ(午後6時頃)過ぎ、日本橋左内町(現在の日本橋一・二丁目)から出火します。この火事は本所まで飛び火して夜九ツ半時(午前0時)に鎮火しました。この火事においても中村座、市村座が焼失するなど大きな被害がでました。

 

文化8年(1811年)2月11日申の刻(15時~17時)、市谷谷町(現在の新宿区住吉町)から出火、四谷、麻布、芝まで延焼する火事が発生、焼失町屋家数2万、死者は200人を超えたといわれています。文化9年(1812年)1121日宵五ツ時(午後8時頃)、浅草龍泉寺から出火し、吉原遊郭が全焼する火事が発生しました。

 

文化10年(1813年)1130日子の刻(午後11時~午前1時)過ぎ、日本橋高砂町(現在の日本橋富沢町)より出火し、和泉町、堺町、葺屋町の中村座、市村座、操り芝居が全焼、乗物町(現在の日本橋堀留町)周辺まで延焼する火事が発生しました。文化13年(1816年)5月3日には、吉原京町一丁目から出火し遊郭が全焼する火事も発生しています。文化14年(1817年)1月12日暁八ツ時(午前2時)に日本橋新乗物町南側から出火する火事が発生しました。この火事によっても堺町の中村座、葺屋町の市村座が焼失してしまいました。

 

来週月曜日2月18日は、朝から日帰りで大阪出張のため、瓦版もお休みします。次回は19日(火)の予定です。

 

高見澤
 

おはようございます。先週土曜日は、ご案内の通り江戸浮世絵勉強会「江戸の時間」並びに旧正月新年会を行いました。心配していた大雪の予報も勉強会・新年会ともにまったく影響はなく、結果として勉強会にはキリロラ顧問を含む9名、新年会には池田顧問が加わり10名にご参集いただきました。過去にも経験があるのですが、我ら東藝術倶楽部のイベントの際には、予報がどうだったにせよ、いつも天気・天候に恵まれるという不思議な現象が起きます。これも天のご加護というものなのでしょうね。

 

さて、本日は江戸の大火を一休みさせていただき、勉強会と新年会の報告をしたいと思います。

 

2月9日(土)、少し遅れて到着する人もいましたが、東部スカイツリーライン「東向島駅」を出発し、午後3時過ぎに「セイコーミュージアム(THE SEIKO MUSEUM)」に到着しました。ミュージアムでは、専門説明員の方から展示品や時間、時計の歴史について説明を受けました。中国清朝時代の日時計や香時計、漏刻(水時計)等の仕組み、英国をはじめとする欧州で発明された当時の実物の機械式時計など、実際に展示物を動かしてみたり、動画をみたりしながら、当時の人たちの時間に対する概念や、その精緻な機械運動の伝わり方を学ぶことができました。

 

欧州で作られたとされる機械式時計ですが、その起源は中国にあるのではないかとの黒木代表の質問には説明員の方も特段否定することもなく、この辺りの歴史はまた改めて紐解く必要があるかもしれません。フランスで作られた懐中時計の細かな洒落た動く装飾(時報に合わせて天使が鐘を叩く)には、職人がものづくりを楽しんでいた姿が目に浮かびました。

 

機械式時計で最も驚かされたのは、やはり何といっても「和時計」です。欧州の機械式時計は、当時から定時法でしたので昼と夜の時間の長さを調節する必要はなかったのですが、不定時法を採用していた江戸では、何と昼夜の長さを自動的に調節する機能のついた「二挺天符(にちょうてんぷ)」式の和時計が作られていたのです。しかも中には目覚まし機能のついたものまであったのですから、その驚きは倍増です。幕末には徳川斉昭が使っていたとされる発条式の「印籠時計」も展示されており、そのきらびやかな装飾にも目を奪われました。

 

和時計のコーナーには、和時計が描かれた三代歌川豊国と歌川芳虎の江戸後期の浮世絵と、明治期に描かれた小林栄成の「うきよはんじょう穴さがし」の赤絵が展示されていました。豊国の絵からは、当時江戸幕府には時計を扱う専門の技師がいたことを知ることができます。

 

ミュージアムでの最後のコーナーはセイコーの歴史です。同社の創始者である服部金太郎の時計に対する信念と顧客第一をもっとうとしたビジネス精神には、心打たれるところがありました。発条を使った手動式機械時計から自動巻き時計、そしてクウォーツ時計へと進化し、さらにアナログ式からデジタル式へと進化を遂げてきた時計ですが、最後に職人たちは、そうした経験を踏まえた上で最高水準の機械式時計に再び挑戦することになったのです。

 

今、社会はデジタル社会に向けて進みつつあります。何もかもが「0」と「1」の数字に置き換えられ、データの収集・送受信・蓄積が大量かつスピーディーに行われ、人工知能(AI)によって抽出・分析が便利にできるようになりましたが、その分、個人情報が常に他人の目に晒され、監視・管理社会が簡単に成り立つようになりました。これはこれで恐ろしいことですが、人々はそんなことに危機感を抱くようには教育されていません。

 

こうしたデジタル社会の中で、再度アナログの技術が見直されていることは、驚きに絶えません。デジタルという便利さのなかで、それに与せずアナログの世界に挑戦する匠の精神こそ、こらからの日本人が目指すべき道ではないでしょうか?


ミュージアムでは、見学のお土産として「TOKYO MARASON2019」のバッヂが一人一人に配られました。セイコーが東京マラソン2019のオフィシャルタイマーということで、マラソン参加者にしか配られない限定品だそうですが、特別にいただけることになりました。

 

ミュージアム見学の後、近くのファミレスで江戸の時間と、それに関連して「方位」について私から説明をしました。このお話しはすでに瓦版でも紹介しているところなので、ここでは省略します。

 

勉強会の後、当日台東区で講演を終えられた池田顧問が加わっての新年会を開催しました。場所は東銀座にある健康中華「青蓮」東銀座店で行いました。化学調味料を極力使用しないことをもっとうにしている本格中華のチェーン店です。池田顧問を交えての新年会は、池田顧問の家族愛に包まれた心温まるお話しや、表には出てこない裏世界の話などで盛り上がり、今後我々がどう社会で生きていけばいいのか、その示唆を与えられた気がしました。政府やマスコミのいうことをそのまま受けるのではなく、常に自分で考え、自らの信念に従って行動する重要さを改めて感じた次第です。


高見澤




 

おはようございます。ご案内の通り、明日は江戸浮世絵勉強会並びに旧正月新年会を行います。勉強会にはキリロラ顧問を含む10名、新年会には池田顧問が加わり11名が参加されます。今回の勉強会のテーマは「江戸の時間」です。江戸時代の人々の時間の概念や数え方が生活する上で如何に合理的であったか、また時間を知るための工夫・知恵、さらに「和時計」と呼ばれるからくり時計の技術水準の高さを知ることができます。そして最後にはデジタル社会に向けて発展している現代社会に対する思いがけない衝撃が...。その予想だにできない結論は勉強会にて紹介したいと思います。お楽しみに!

 

さて、本日は「文化の大火」について紹介したいと思います。文化の大火は、明暦の大火(振袖火事)、明和の大火(目黒行人坂の火事)と共に江戸三大大火の一つに数えられるほど、大きな被害を出した火事です。丙寅(ひのえとら)の年であったことから「丙寅の大火(ひのえとらのたいか、へいいんのたいか)」、また出火場所から「車町火事(くるまちょうかじ)」、或いは「牛町火事(うしまちかじ)」とも呼ばれています。

 

文化3年3月4日(1806年4月22日)昼九ツ時(正午)〔昼四ツ(午前10時)頃という説もある〕、高輪泉岳寺門前牛町(芝車町)〔現在の東京都港区高輪二丁目〕の材木座付近から出火します。この火は西南の風に煽られて、札の辻、薩摩藩上屋敷(現在の港区芝)から増上寺五重塔を全焼させ、日本橋、京橋木挽町、数寄屋橋に飛び火、更に神田川を越え浅草まで燃え広がりました。この火事により、増上寺、芝神明、東本願寺のほか、江戸三座の森田座が被害を受けました。

 

火災発生の翌日5日に大雨が降ったことにより、同日昼四ツ時(午前10時)頃には鎮火しましたが、その被害は大きく、「武江年表(ぶこうねんぴょう)」〔斎藤月岑(さいとうげっしん)が著した江戸・東京の地誌〕によれば、類焼した距離は2里半(約10キロメートル)、530町にも及び、焼失家屋126,000戸、被災武家屋敷80カ所、被災寺社80カ所、死者は1,200人を超えたといわれています。この大火のために、大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれました。

 

この火事によって焼き出された罹災者は少なくなく、幕府は11万人以上ともいわれるこの罹災者のために「御救小屋(おすくいごや)」を建てて炊き出しを行い、「御救米銭(おすくいべいせん)」という支援金を下付し、火災後の諸色物価高値取締りなどの対策も講じました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の東京都心は久しぶりに少し強い雨が降っていましたが、夜にはすっかりと止み、今朝は晴れています。節分も過ぎ、これから春に向かって雨も少しずつですが増えていくものと思います。今日の東京の天気は降水確率0%の晴れ、気温は17℃まで上がる四月上旬並みの気候になるようです。

 

さて、本日は寛政年間(1789年~1801年)の大火と、その中でも特に別称が付いた「桜田火事」について紹介したいと思います。寛政年間といえば、天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)まで続く老中・松平定信による「寛政の改革」で有名ですが、浮世絵愛好家の間では寛政6年(1794年)に彗星の如く現われて、わずか10カ月ほど活動した後に消えていった浮世絵師・東洲斎写楽のことを思わずにはいられません。

 

この寛政年間にも江戸では頻繁に大火が発生します。寛政元年(1789年)に、南日ヶ窪町(現在の東京都港区麻布十番一丁目、六本木五・六丁目)から出火し、幅2町、長さ4町にわたり延焼する火事が発生しました。麻布永坂まで類焼したといいます。

 

寛政4年(1792年)7月21日昼、麻布笄橋(こうがいばし)より出火、番町から麹町まで焼失しました。寛政5年(1973年)1025日には、湯島から出火した火が日本橋まで延焼し、これにより中村座、市村座が類焼してしまいました。

 

寛政6年(1794年)正月10日未申刻(13時~17時)、麹町五丁目にある秋田屋という酒屋から出火した火が、烈風に煽られて山王神社、永田馬場、霞が関、虎御門外、桜田辺りの諸侯藩邸が類焼、さらに幸橋御門を焼いて、愛宕下、日蔭町、新橋、芝新銭座、仙台・会津家等の屋敷一円(現在の東京都港区の新橋、芝、浜松町一帯)が焼失した記録(『武江年表』)が残されています。この火事は、桜田門外の大名屋敷を中心に焼失していることから、「桜田火事」と呼ばれています。寛政6年には、4月2日にも亥の刻(21時~23時)に吉原遊郭を全焼する火事が起きています。

 

寛政9年(1797年)1122日昼四ツ半時(午前11時)頃、神田佐久間町から出火します。この火事は隅田川を越えて木場まで延焼し、3,000人ほどの死者が出たとされています。寛政12年(1800年)2月23日亥の半刻(22時)頃、今度は浅草龍泉寺町より出火します。この火事では吉原遊郭が全焼し、浅草田町ほか6カ所に仮宅ができたようです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は、黒木代表と共に、2月9日(土)の勉強会の下見に行ってきました。当日は、先ずは墨田区向島にあるセイコーミュージアムで世界各国の時計の歴史を見学、その後「江戸の時間」についての勉強会を小一時間行いたいと思います。そして、最後は池田顧問が合流しての旧正月新年会です。お楽しみいただければと思います。


さて、本日は「天明年間の大火」について紹介したいと思います。明和の大火が起きた明和9年(1772年)は旧暦1116日(グレゴリオ暦1210日)に「安永」と元号を改めます。「明和九年」が「迷惑年(めいわくねん)」と読めるからだともいわれますが、やはり明和の大火という大災害に対する人々の不安が大きかったのかもしれません。


 


安永7年(1778年)2月12日に大火があったものの、安永年間(1772年~1781年)は大火は多くなく、続く天明年間(1781年~1789年)は大火が続くことになります。天明年間といえば、天明2年(1782年)頃から始まる「天明の大飢饉」とそれに追い打ちをかける天明3年(1783年)の浅間山の大噴火など、自然災害による受難の時期でありました。



 


天明元年(1781年)1月9日、日本橋新木材町河岸より出火した火事により葺屋町、堺町、葭町(現在の中央区日本橋人形町辺り)などが類焼し、市村座、中村座が全焼してしまいました。同年9月30日夜五つ時(午後8時)過ぎ、浅草伏見町(現在の台東区千束四丁目)より出火、吉原が全焼する火事が発生しました。


 


天明2年1120日に浅草で火事が発生します。この火事では消し口(消火にとりかかる場所)を奪い合って、秋田久保田藩の火消と町火消との間で喧嘩が起こりました。


 


天明3年1028日丑の刻(午前2時)頃、日本橋小伝馬町一丁目より出火しました。これにより人形町、葺屋町、境町、瀬戸物町、宝町まで延焼し、市村座、中村座が焼失してしまいました。


 


天明4年(1784年)4月17日丑の下刻(午前2時20分)、吉原水道尻(大門突き当り)より出火した火事により、遊郭を含む5丁町(新吉原全体)が全焼してしまいました。同年1227日、今度は大名小路(外濠と馬場先濠に囲まれた一帯)西尾家上屋敷から出火します。この火によって海手まで延焼し、木挽町にあった森田座(現在の中央区銀座六丁目辺り)が類焼しました。


 


天明6年(1786年)1月22日、湯島天神門前から出火します。この火事は神田、日本橋から深川まで延焼し、中村座が焼失。翌日には西久保(現在の東京都港区虎ノ門二~五丁目)神谷町から海手まで火が回りました。


 


天明7年(1787年)11月9日、吉原角町仲之町から出火、遊郭が全焼する火事が発生しました。


 


高見澤



 

おはようございます。昨日の東京は確かに暖かく、日中などはまるで桜が咲いているのではないかと思うような心地よい感じを受けました。一方、北米では体感温度が零下50℃を下回る大寒波が訪れ、逆にオーストラリアでは50℃に迫る超酷暑になっているようで、その温度差なんと100℃にも達しています。以前、零下25℃の真冬の中国吉林省長春から20℃の広東省広州まで飛行機で移動したことがあり、服装などに戸惑うこともありましたが、今回はその比ではありません。もちろん、そんな無謀の移動をした人がいるとは思えませんが...。

 

さて、本日も前回に続き「明和の大火」についてお話ししたいと思います。この大火の出火原因ですが、何と武州熊谷無宿の真秀という坊主の放火によるものでした。元々は火元となった大円寺の坊主だったようです。ちなみに「無宿(むしゅく)」とは、宗門人別改帳(現在の戸籍台帳にあたる)から名前を外された者のことで、連座制による罪が及ぶことを恐れた親族から不行跡を理由に勘当された町人、追放刑を受けた罪人、天災による飢饉や破産等で生活困難に陥った農民などです。

 

当時も今も放火は重罪です。真秀は明和9年(1772年)4月頃に捕縛されます。捕縛したのは池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公・火付盗賊改方長官の長谷川平蔵宣以(のぶため)の父で、同じ火付盗賊改方長官であった長谷川平蔵宣雄(のぶお)の配下でした。宣雄はこの功績が評価され、後に京都西町奉行に転任し、従五位下備中守に叙任されています。

 

一方、真秀は明和9年6月21日に市中引き廻しの上、千住大橋南側にあった小塚原の刑場で火刑に処されました。真秀が放火した理由はよく分かっていませんが、寺を破門された逆恨みであったとか、景気付けに数軒焼くために火を付けたら大火事になったとか、推測されています。

 

明和の大火は死者が1万人を超える大きな被害となりましたが、明暦の大火に比べると比較的被害が少なったといえます。これは明暦の大火以降、火事に対する防災対策が強化され、定火消や町火消などの消防体制が整備され、また延焼を防ぐ都市建設がある程度進んでいたからだといわれています。

 

とはいえ、江戸時代当時、目黒行人坂辺りは寺社や農家がまばらに存在していた片田舎。家屋の密集度も小さかったと思いますが、それがなぜ江戸市中に延焼していったのか、大きな疑問が残るところです。それだけ当時の空気が乾燥し、風が強かったのでしょうか? まだまだ解明されないことは多いです。

 

ところで、火元の大円寺ですが、以前紹介した「天和の大火(八百屋お七火事)」とも所縁があるようです。天和2年(1682年)の大火で焼き出されたお七の一家が避難し、寺小姓と恋仲になった寺が、この目黒行人坂の大円寺であったという説もあります。この火事の火元が駒込の大円寺であったことから、ごっちゃになったのではないかと思いますが、以下のような逸話が残されています。

 

お七と恋仲になった寺小姓・吉三は、お七の処刑後に僧となって名を「西運」と改め諸国を行脚しました。後に大円寺下の明王院(現在の雅叙園)に入り、お七の菩提を弔うため、往復十里(約40キロメートル)の道のりである浅草観音まで、夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱えるという「遠隔夜日参り一万日の行」を27年5カ月かけて成し遂げました。その際、お七が西運の夢枕に立って成仏したことを告げられました。これにより、西運は「お七地蔵尊」を造りました。このお七地蔵尊は大円寺本堂西側の阿弥陀堂に祀られており、拝観するには許可が必要だそうです。

 

西運ですが、多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基に行人坂敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど数々の社会事業を行ったといわれています。

 

高見澤

 

おはようございます。三寒四温というにはまだ早い季節ですが、今日の東京は大分暖かくなるようで、日中の気温は19℃まで上がるようですが、明日からはまた寒さが戻るとのことです。昨日は節分には豆まきを楽しまれた方、恵方巻きを食された方もいるかと思います。今年の恵方は甲(きのえ)の方向、すなわち東北東です。以前、方角の神である歳徳神について紹介したことがあります。些細なことですが、こうした知識が日々の生活を豊かにしてくれます。

 

さて、本日は前回予告した通りに「明和の大火」について紹介していきたいと思います。今回と次回の二回に分けて説明します。明和の大火は、以前紹介した江戸最大の火事であった「明暦の大火」、後に紹介することになる「文化の大火」と共に「江戸三大大火」の一つに数えられる大規模な火災です。出火元の名をとって、「目黒行人坂の火事」とも呼ばれています。

 

明和9年2月29日(1772年4月1日)午の下刻(午後1時)頃、目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)〔現在の東京都目黒区下目黒一丁目〕の大円寺から出火した火事は南西の風に煽られて麻布、京橋、日本橋にあった武家屋敷を焼きつくし、神田、浅草、千住方面まで燃え広がり、その際に日本橋や中村座、市村座、吉原遊郭なども焼失しました。

 

この火事は、一旦は小塚原付近で鎮火したものの、同日の暮六つ(酉の正刻、午後6時)頃に本郷丸山菊坂(現在の東京都文京区本郷五丁目)から再出火します。火は駒込(東京都豊島区)、谷中、根岸(いずれも東京都台東区)に至り、翌2月30日(4月2日)の昼頃に鎮火したようにみえました。

 

ところが、3月1日(4月3日)巳の正刻(午前10時)頃に今度は馬喰町(東京都中央区日本橋)付近から再々出火します。この火は東側に燃え広がって日本橋地域全体が壊滅したとのことです。

 

この火災による死者は1万4,700人、行方不明者は4,000人余で、類焼した町は934町、大名屋敷は169カ所、橋170カ所、寺382カ所に上ったといわれています。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂などの名所も被災しました。江戸の約三分の一が焼失してしまったそうです。

 

高見澤

おはようございます。昨日の午後から降り始めた雨は、東京都心でも夜遅くに霙交じりの雨となりましたが、今朝は止んで冷たい風が吹いています。東京都心は久しぶりのお湿りといったところでしょうか。一方、関東の平野部でも降雪となったところもあり、路面の凍結が心配なようですし、山沿いではかなり積もっていると聞いており、そのご苦労が伺えます。 さて、本日は「江戸の三大大火」の一つに数えられる「明和の大火」の前に起きた明和年間(1764年~1772年)の火事について紹介したいと思います。明和年間は、定火消と町火消が併存して消火活動を行ったり、町火消に竜吐水等の機械式防火用具が支給されたりなど、消火体制が確立していた時代でもありました。しかし、そうした時に起きる気の緩みが思わぬ形で大きな災難を招いてしまうこともあります。 明和3年(1766年)2月29日、日本橋堺町より出火した火災によって、江戸三座の中村座と市村座が焼失します。明和4年(1767年)4月には、八丁堀水谷町弾正橋(旧弾正橋)付近から出火し、日本橋から一橋一帯にかけての地域が焼け、日本橋通町にあった呉服・小間物問屋の白木屋(東急百貨店の前身)が焼失しました。 明和5年(1768年)4月6日、吉原(新吉原)江戸町二丁目から出火する火事が発生します。この火事で吉原遊郭が残らず焼失してしまいました。明和8年(1771年)4月28日寅の中刻(午前4時20分頃)に、今度は吉原揚屋町から出火する火事が発生します。これにより、5丁町(ごちょうまち)〔江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町(すみちょう)を示すことから新吉原の総称としても使われていた〕が全焼し、今戸、橋揚(はしば)〔いずれも東京都台東区〕、両国〔東京都墨田区〕に仮宅ができたそうです。 次回は、いよいよ

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