東藝術倶楽部瓦版 20190201:江戸の主な大火-明和の大火前の江戸の火事

おはようございます。昨日の午後から降り始めた雨は、東京都心でも夜遅くに霙交じりの雨となりましたが、今朝は止んで冷たい風が吹いています。東京都心は久しぶりのお湿りといったところでしょうか。一方、関東の平野部でも降雪となったところもあり、路面の凍結が心配なようですし、山沿いではかなり積もっていると聞いており、そのご苦労が伺えます。 さて、本日は「江戸の三大大火」の一つに数えられる「明和の大火」の前に起きた明和年間(1764年~1772年)の火事について紹介したいと思います。明和年間は、定火消と町火消が併存して消火活動を行ったり、町火消に竜吐水等の機械式防火用具が支給されたりなど、消火体制が確立していた時代でもありました。しかし、そうした時に起きる気の緩みが思わぬ形で大きな災難を招いてしまうこともあります。 明和3年(1766年)2月29日、日本橋堺町より出火した火災によって、江戸三座の中村座と市村座が焼失します。明和4年(1767年)4月には、八丁堀水谷町弾正橋(旧弾正橋)付近から出火し、日本橋から一橋一帯にかけての地域が焼け、日本橋通町にあった呉服・小間物問屋の白木屋(東急百貨店の前身)が焼失しました。 明和5年(1768年)4月6日、吉原(新吉原)江戸町二丁目から出火する火事が発生します。この火事で吉原遊郭が残らず焼失してしまいました。明和8年(1771年)4月28日寅の中刻(午前4時20分頃)に、今度は吉原揚屋町から出火する火事が発生します。これにより、5丁町(ごちょうまち)〔江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町(すみちょう)を示すことから新吉原の総称としても使われていた〕が全焼し、今戸、橋揚(はしば)〔いずれも東京都台東区〕、両国〔東京都墨田区〕に仮宅ができたそうです。 次回は、いよいよ

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年2月 1日 10:23に書いたブログ記事です。

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