藝術倶楽部瓦版 20190205:江戸の主な大火-明和の大火②

 

おはようございます。昨日の東京は確かに暖かく、日中などはまるで桜が咲いているのではないかと思うような心地よい感じを受けました。一方、北米では体感温度が零下50℃を下回る大寒波が訪れ、逆にオーストラリアでは50℃に迫る超酷暑になっているようで、その温度差なんと100℃にも達しています。以前、零下25℃の真冬の中国吉林省長春から20℃の広東省広州まで飛行機で移動したことがあり、服装などに戸惑うこともありましたが、今回はその比ではありません。もちろん、そんな無謀の移動をした人がいるとは思えませんが...。

 

さて、本日も前回に続き「明和の大火」についてお話ししたいと思います。この大火の出火原因ですが、何と武州熊谷無宿の真秀という坊主の放火によるものでした。元々は火元となった大円寺の坊主だったようです。ちなみに「無宿(むしゅく)」とは、宗門人別改帳(現在の戸籍台帳にあたる)から名前を外された者のことで、連座制による罪が及ぶことを恐れた親族から不行跡を理由に勘当された町人、追放刑を受けた罪人、天災による飢饉や破産等で生活困難に陥った農民などです。

 

当時も今も放火は重罪です。真秀は明和9年(1772年)4月頃に捕縛されます。捕縛したのは池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公・火付盗賊改方長官の長谷川平蔵宣以(のぶため)の父で、同じ火付盗賊改方長官であった長谷川平蔵宣雄(のぶお)の配下でした。宣雄はこの功績が評価され、後に京都西町奉行に転任し、従五位下備中守に叙任されています。

 

一方、真秀は明和9年6月21日に市中引き廻しの上、千住大橋南側にあった小塚原の刑場で火刑に処されました。真秀が放火した理由はよく分かっていませんが、寺を破門された逆恨みであったとか、景気付けに数軒焼くために火を付けたら大火事になったとか、推測されています。

 

明和の大火は死者が1万人を超える大きな被害となりましたが、明暦の大火に比べると比較的被害が少なったといえます。これは明暦の大火以降、火事に対する防災対策が強化され、定火消や町火消などの消防体制が整備され、また延焼を防ぐ都市建設がある程度進んでいたからだといわれています。

 

とはいえ、江戸時代当時、目黒行人坂辺りは寺社や農家がまばらに存在していた片田舎。家屋の密集度も小さかったと思いますが、それがなぜ江戸市中に延焼していったのか、大きな疑問が残るところです。それだけ当時の空気が乾燥し、風が強かったのでしょうか? まだまだ解明されないことは多いです。

 

ところで、火元の大円寺ですが、以前紹介した「天和の大火(八百屋お七火事)」とも所縁があるようです。天和2年(1682年)の大火で焼き出されたお七の一家が避難し、寺小姓と恋仲になった寺が、この目黒行人坂の大円寺であったという説もあります。この火事の火元が駒込の大円寺であったことから、ごっちゃになったのではないかと思いますが、以下のような逸話が残されています。

 

お七と恋仲になった寺小姓・吉三は、お七の処刑後に僧となって名を「西運」と改め諸国を行脚しました。後に大円寺下の明王院(現在の雅叙園)に入り、お七の菩提を弔うため、往復十里(約40キロメートル)の道のりである浅草観音まで、夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱えるという「遠隔夜日参り一万日の行」を27年5カ月かけて成し遂げました。その際、お七が西運の夢枕に立って成仏したことを告げられました。これにより、西運は「お七地蔵尊」を造りました。このお七地蔵尊は大円寺本堂西側の阿弥陀堂に祀られており、拝観するには許可が必要だそうです。

 

西運ですが、多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基に行人坂敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど数々の社会事業を行ったといわれています。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年2月 5日 07:18に書いたブログ記事です。

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