おはようございます。昨日は、黒木代表と共に、2月9日(土)の勉強会の下見に行ってきました。当日は、先ずは墨田区向島にあるセイコーミュージアムで世界各国の時計の歴史を見学、その後「江戸の時間」についての勉強会を小一時間行いたいと思います。そして、最後は池田顧問が合流しての旧正月新年会です。お楽しみいただければと思います。
さて、本日は「天明年間の大火」について紹介したいと思います。明和の大火が起きた明和9年(1772年)は旧暦11月16日(グレゴリオ暦12月10日)に「安永」と元号を改めます。「明和九年」が「迷惑年(めいわくねん)」と読めるからだともいわれますが、やはり明和の大火という大災害に対する人々の不安が大きかったのかもしれません。
安永7年(1778年)2月12日に大火があったものの、安永年間(1772年~1781年)は大火は多くなく、続く天明年間(1781年~1789年)は大火が続くことになります。天明年間といえば、天明2年(1782年)頃から始まる「天明の大飢饉」とそれに追い打ちをかける天明3年(1783年)の浅間山の大噴火など、自然災害による受難の時期でありました。
天明元年(1781年)1月9日、日本橋新木材町河岸より出火した火事により葺屋町、堺町、葭町(現在の中央区日本橋人形町辺り)などが類焼し、市村座、中村座が全焼してしまいました。同年9月30日夜五つ時(午後8時)過ぎ、浅草伏見町(現在の台東区千束四丁目)より出火、吉原が全焼する火事が発生しました。
天明2年11月20日に浅草で火事が発生します。この火事では消し口(消火にとりかかる場所)を奪い合って、秋田久保田藩の火消と町火消との間で喧嘩が起こりました。
天明3年10月28日丑の刻(午前2時)頃、日本橋小伝馬町一丁目より出火しました。これにより人形町、葺屋町、境町、瀬戸物町、宝町まで延焼し、市村座、中村座が焼失してしまいました。
天明4年(1784年)4月17日丑の下刻(午前2時20分)、吉原水道尻(大門突き当り)より出火した火事により、遊郭を含む5丁町(新吉原全体)が全焼してしまいました。同年12月27日、今度は大名小路(外濠と馬場先濠に囲まれた一帯)西尾家上屋敷から出火します。この火によって海手まで延焼し、木挽町にあった森田座(現在の中央区銀座六丁目辺り)が類焼しました。
天明6年(1786年)1月22日、湯島天神門前から出火します。この火事は神田、日本橋から深川まで延焼し、中村座が焼失。翌日には西久保(現在の東京都港区虎ノ門二~五丁目)神谷町から海手まで火が回りました。
天明7年(1787年)11月9日、吉原角町仲之町から出火、遊郭が全焼する火事が発生しました。
高見澤