東藝術倶楽部瓦版 20190208:江戸の主な大火-「文化の大火」

 

おはようございます。ご案内の通り、明日は江戸浮世絵勉強会並びに旧正月新年会を行います。勉強会にはキリロラ顧問を含む10名、新年会には池田顧問が加わり11名が参加されます。今回の勉強会のテーマは「江戸の時間」です。江戸時代の人々の時間の概念や数え方が生活する上で如何に合理的であったか、また時間を知るための工夫・知恵、さらに「和時計」と呼ばれるからくり時計の技術水準の高さを知ることができます。そして最後にはデジタル社会に向けて発展している現代社会に対する思いがけない衝撃が...。その予想だにできない結論は勉強会にて紹介したいと思います。お楽しみに!

 

さて、本日は「文化の大火」について紹介したいと思います。文化の大火は、明暦の大火(振袖火事)、明和の大火(目黒行人坂の火事)と共に江戸三大大火の一つに数えられるほど、大きな被害を出した火事です。丙寅(ひのえとら)の年であったことから「丙寅の大火(ひのえとらのたいか、へいいんのたいか)」、また出火場所から「車町火事(くるまちょうかじ)」、或いは「牛町火事(うしまちかじ)」とも呼ばれています。

 

文化3年3月4日(1806年4月22日)昼九ツ時(正午)〔昼四ツ(午前10時)頃という説もある〕、高輪泉岳寺門前牛町(芝車町)〔現在の東京都港区高輪二丁目〕の材木座付近から出火します。この火は西南の風に煽られて、札の辻、薩摩藩上屋敷(現在の港区芝)から増上寺五重塔を全焼させ、日本橋、京橋木挽町、数寄屋橋に飛び火、更に神田川を越え浅草まで燃え広がりました。この火事により、増上寺、芝神明、東本願寺のほか、江戸三座の森田座が被害を受けました。

 

火災発生の翌日5日に大雨が降ったことにより、同日昼四ツ時(午前10時)頃には鎮火しましたが、その被害は大きく、「武江年表(ぶこうねんぴょう)」〔斎藤月岑(さいとうげっしん)が著した江戸・東京の地誌〕によれば、類焼した距離は2里半(約10キロメートル)、530町にも及び、焼失家屋126,000戸、被災武家屋敷80カ所、被災寺社80カ所、死者は1,200人を超えたといわれています。この大火のために、大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれました。

 

この火事によって焼き出された罹災者は少なくなく、幕府は11万人以上ともいわれるこの罹災者のために「御救小屋(おすくいごや)」を建てて炊き出しを行い、「御救米銭(おすくいべいせん)」という支援金を下付し、火災後の諸色物価高値取締りなどの対策も講じました。

 

高見澤