おはようございます。昨日は久しぶりの国内出張で、大阪に日帰りで行ってきました。片道550キロを日帰りで往復するのは、さすがに疲れました。品川から新大阪まで「のぞみ」で2時間16分、昔なら1泊2日の出張も今では日帰りで全く問題なく往復できます。これが江戸時代なら...と考えると、確かに世界は広がったように思えます。しかし、物理的には広がったように見える世界ですが、自然や宇宙と感覚的につながっていた昔の人の方がより多くのものをみることができたのではないでしょうか。
さて、本日は文政年間(1818年~1831年)の大火について紹介していきたいと思います。江戸時代も19世紀に入ると、火事の発生が多くなっていきます。人口の増加と町の過密化が火事を助長することになったのですが、防火・消防体制が時代と共に整備されてきたことから、火事による被害は次第に小さなものになっていきました。
文政元年(1818年)10月17日、浅草山之宿(現在の東京都台東区花川戸一・二丁目、浅草七丁目)から出火した火は、本所扇橋(現在の江東区扇橋)まで延焼しました。翌文政2年(1819年)2月9日丑の下刻(午前2時20分~午前3時)、京橋新肴町(現在の中央区銀座三丁目)から出火、幅4町、長さ10町余りが焼失する大火となりました。このとき、鳶人足同士の喧嘩が発生、134人が処罰されることになりました。
文政3年(1820年)12月29日には白銀町(現在の東京都新宿区)から出火、火は本所まで至りました。文政4年(1821年)1月12日、上野御山内(現在の台東区)で火事が発生、この火事で尾張名古屋藩と加賀金沢藩の鳶人足が口論となりました。文政5年(1822年)5月4日、京橋木挽町(現在の中央区銀座一~八丁目)の森田座の控え櫓であった河原崎座の楽屋から出火、周辺の町屋が類焼しました。
文政6年(1823年)1月12日、麻布古川(現在の港区麻布十番から南麻布二丁目辺り)から出火、火は八つ山(港区三・四丁目)まで延焼し、飛び火により品川本宿(品川区北品川)、鮫洲(品川区東大井)まで焼失しました。同年12月25日、糀町(千代田区麹町)から出火、この火事で山王、赤坂、青山(いずれも港区)辺りまで焼失しました。
文政7年(1824年)2月1日、神田三川町(千代田区)から出火した火災により日本橋まで焼失。同年2月8日には南新堀二丁目(現在の中央区新川一丁目)から出火。同年4月3日、今度は吉原京町二丁目から出火、遊郭が全焼する火事が発生しました。
文政8年(1825年)亥の刻(22時)、日本橋葺屋町から出火する火事が起きます。これにより、市村座、中村座が焼失。元大坂町から住吉町、人形町(いずれも現在の中央区日本橋人形町)まで延焼しました。文政10年(1827年)1月4日亥の刻にも、同じく日本橋葺屋町から出火する火事が発生します。前回と同様に市村座、中村座が焼失し、人形町、甚左衛門町(現在の日本橋人形町一丁目、日本橋小網町)まで類焼しました。
文政年間の火事はまだまだ続きます。
高見澤