東藝術倶楽部瓦版 20190226:江戸の主な大火-安政年間の大火と「地震火事」

 

おはようございます。気候も少しずつ暖まり、花粉症の方にはつらい季節となりました。最近では薬物治療が進化したようで、症状を大分抑えられることができるようですが、それでも根本治療はかないません。私は花粉症というほどの症状はでませんが、それでもこの季節はくしゃみや鼻水が少し多めになり、ときどき目も痒くなることがあります。一旦症状が出てしまうと、アレルギーですから治癒することはかなり難しいといえましょう。少しでも症状を抑えるには、習慣性が増幅する薬物に頼るよりも、少しずつ体質を変えていくしかないと思います。その基本はやはり食の改善です。

 

さて、本日は安政年間(1855年~1860年)の大火と「地震火事」について紹介したいと思います。幕末も押し迫ってくると、外国人が頻繁に到来し、世の中も何かと物騒になり、260年にわたって続いてきた平和な時代に陰りが生じてきます。そして火事もまた一向に減ることはありませんでした。

 

嘉永7年11月5日(18541224日)亥の刻(21時~23時)に浅草聖天町(現在の台東区浅草六・七丁目)から出火した火が燃え広がり、猿若町(浅草六丁目)の中村座、市村座、森田座の江戸三座を全焼させ、更に隅田川を越えて本所(東京都墨田区)まで飛び火する火事が発生しました。その直後の嘉永7年1127日(1855年1月15日)に嘉永から安政に改元されています。

 

安政2年(1855年)10月2日夜四ツ時(22時頃)、八丈島付近を震源地とするマグネチュード6.9の地震が発生します。世にいう「安政江戸地震(安政の大地震)」です。この地震については別の機会に紹介しようと思いますが、この地震の直後に各所で火災が発生しました。火はあちらこちらで燃え広がり大火となって、江戸に大きな被害をもたらしました。この火事は安政江戸地震によって発生したことから、「地震火事」と呼ばれました。倒壊した家屋は1万4,346戸、焼失した家屋はそれ以上に上ったものと思われます。死者については3,895人に達したということです。死者については1万、或いは20万人とも書いてある本もありますが、これは誇張しているという見方が多いようです。嘉永7年頃から各地で地震が頻発していたこともあり、この頃は浮世絵の「鯰絵」が大流行したそうです。

 

安政5年(1858年)1月9日亥の下刻(2220分~23時)、浅草猿若町の森田座より出火する火事が発生します。市村座も焼け、浅草聖天町や瓦町(現在の台東区柳橋一・二丁目、浅草橋一~三丁目)まで延焼しました。同じ年の1115日丑の刻(午前1時~3時)、今度は神田相生町(千代田区)から出火、幅7町、長さ22町、計250町余りを焼く大火が発生しました。この火事で日本橋も半焼しました。

 

安政6年(1859年)2月22日丑の刻過ぎに、青山穏田町(現在の渋谷区神宮前五・六丁目)から出火する火事が発生しました。この火事は、四谷を越えて小石川音羽町まで延焼しました。被害は幅4町、長さ1里8町が焼失し、死傷者も多数出たとされています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年2月26日 13:27に書いたブログ記事です。

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