2019年3月アーカイブ

 

おはようございます。昨日は、朝方が少し寒く感じたので薄手のコートを着ていきましたが、昼間はかなり気温が上昇しコートは必要としませんでした。ところが夜は風が冷たく、再びコートの出番となりました。夕食は某大手商社の接待施設で会食があり、帰宅の途に就いたのは夜9時過ぎでした。今日は昼に中国のメディア関係者と会食、明日は、朝からホテルニューオータニで朝食付きの日中経済関連団体の会合と、食事を含めた外での会議が続きます。明日は瓦版をお送りすることができず、休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「茶屋(ちゃや)」について紹介したいと思います。江戸時代、茶屋というのは、客にお茶を出して休息させる「茶店(ちゃみせ)」から発展した各種の飲食遊興のお店のことを指します。もちろん茶店も茶屋の一つに数えられます。

 

日本でお茶を楽しむ喫茶の習慣が広がったのは、一般的には延暦24年(805年)に唐から帰国した最澄が茶の苗木を持ち帰り、比叡山山麓に植えたことに始まると言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。最初は寺社や貴族の間で飲まれていたお茶も、15世紀の室町時代になると庶民の間にも広がっていきました。東寺の門前などで参拝客に茶湯一杯を安価で提供する「一服一銭」が茶屋の前身だと言われていますが、当初は縁日などに茶道具を持ち込んでの立売が基本で、店舗ではなかったようです。

 

この「一服一銭」が、後に寺社の門前に小屋がけをするようになり、「一銭茶屋」と呼ばれる「掛茶屋(かけぢゃや)」が登場してきます。掛茶屋は、路傍や公園などに腰掛を置き葦簀をさし掛けて簡単に造ったことから、こう呼ばれていました。江戸時代に入り社会が安定してくると、宿場を中心にいろいろな茶屋が生まれてきました。街道筋に多くの掛茶屋が登場するのですが、当初は宿場を離れた山中に休息の場所として設けられました。

 

これが次第に宿場近くの棒鼻(ぼうはな)にまで進出してきます。この宿場はずれにできた茶屋を「立場茶屋(たてばぢゃや)」といいます。宿場の境に棒杭が立っていたことから、立場と言っていたそうです。宿場保護のために、立場茶屋での食事や宿泊は禁じられていましたが、力餅などの軽食や酒、肴などが提供されるようになり、やがて給仕女を置いて客引きを行う店も登場してきました。

 

これに対して宿場に置かれた茶屋を「水茶屋(みずぢゃや)」と呼びます。寺社の境内や道端に設けた掛茶屋で、単に茶湯を出すだけでしたが、看板娘を置くなどして、江戸庶民にとっては休息の場所として利用されることが多かったようです。また、お茶の葉を売る「葉茶屋(はぢゃや)」と呼ばれる茶屋もあり、店先には縁台に緋毛氈(ひもうせん)や赤い布を掛け、赤い野点傘を差していたところもありました。

 

このほか、貸席を営む「待合茶屋(まちあいぢゃや)」や「出会茶屋(であいぢゃや)」、吉原などで遊客を妓楼に案内する「引手茶屋(ひきてぢゃや)」などの「色茶屋(いろぢゃや)」、更には芝居小屋に付属して観客の案内や幕間の休息・食事などの世話をする「芝居茶屋(しばいぢゃや)」、大相撲の興業中に観客に酒食を提供したり相撲の観覧席の売りさばきを任させる「相撲茶屋(すもうぢゃや)」などがありました。京や大坂には、太夫(たゆう)を呼ぶ「揚屋(あげや)」に対して、下級妓である「天神」を揚げて遊ぶ「天神茶屋(てんじんぢゃや)」と呼ばれる茶屋もあったそうです。

 

また、客室があって、客の注文に応じて料理を食べさせる「料理茶屋(りょうりちゃや)」が登場したもの江戸時代です。料理茶屋の中には、江戸時代に創業して現在も料亭として営業している店もあります。

 

高見澤

 

おはようございます。北京に行っている間に、東京の桜の開花を告げる靖国神社の基準桜が花をつけ、我が職場の周りにある千鳥ヶ淵の桜が満開を迎えようとしています。今週末が見頃とのことで、多くの人で賑わうことでしょう。大学などの卒業式も武道館で行われており、袴姿の女性が桜の下を歩く姿を見ると、学生時代が懐かしく感じられます。

 

さて、本日は「木賃宿(きちんやど)」について紹介したいと思います。木賃宿とは、江戸時代においては、各宿場で、客の持参した食料を煮炊きする薪代だけを受け取って宿泊させた宿のことです。薪の代金のことを「木賃(きちん)」、或いは「木銭(きせん)」といい、「木銭宿(きせんやど)」とも呼ばれていました。

 

古来、庶民が旅をする際には野宿が一般的でしたが、野宿から旅籠に移る過渡期の宿泊所として、鎌倉時代に木賃宿の形態が生まれたといわれています。元亀年間(1570年~1573年)から慶長年間(1593年~1615年)のころの庶民の旅は、干飯(ほしいい)や米、大根漬けなどを携行して、宿泊所では湯をもらうだけのことでした。その湯を沸かす燃料代(薪代)を支払う必要があり、それが木賃として支払われる仕組みでした。

 

旅人が馬をつれている場合、湯の使用量は人よりも馬の方が多かったようで、慶長16年(1611年)の幕府法令では、人に対する木賃は銭3文、馬は6文と規定されていました。後のこの差は徐々に縮まっていったようです。また、寛文5年(1665年)には、主人に対する木賃は16文、従者は6文とされましたが、慶応2年(1866年)には主人と従者との差は廃止されました。

 

木賃宿の形式から、次第に「木賃(銭)米代宿泊制」へと発展する場合もありました。これは旅人が宿泊所が用意した米を買って自炊し、その米代と薪代を支払うもので、この場合、旅人は食料を持参する必要はありませんでした。そして、交通量の増大とともに、これが飲食を供し入浴も可能となる旅籠への発展していくのでした。

 

とはいえ、木賃宿が消滅したわけではありません。江戸時代後期には、大道商人、助郷人足、雲助、日雇い稼ぎなどの零細庶民が宿泊する施設として利用されており、「御安宿」、「雲助宿」、「日雇宿」などとも呼ばれていました。天保年間(1830年~1844年)には、旅籠の宿代は木賃宿の5倍、木賃宿の場所は宿場のはずれにあったということです。この形式の宿泊施設は明治以降も存続し、屋根銭、布団代を支払う宿のことを指していました。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日から週末を挟んで北京に出張し、昨日早朝のフライトで東京に戻り、昨夜も夜遅くまで残業というかなりハードなスケジュールでした。今回の北京出張は、中国発展ハイレベルフォーラムへの出席ということで、このフォーラムは世界各国の著名企業のCFO、ノベール経済学賞受賞者等の研究者、世銀等国際機関のトップなどが集まり、世界経済・社会や中国を巡る諸問題を議論する大規模な会議です。会場となったのは、中国の国の迎賓館である「釣魚台国賓館」で、出入ばかりでなく園内の至るところでも厳重な警戒がひかれていました。私自身は理事長のお供で、一参加者として出席しただけですが、こうした世界で活躍する人たちは、一般の人々とは隔絶された雰囲気を醸し出しています。

 

さて、本日は江戸時代の宿泊施設「旅籠(はたご)」について紹介したいと思います。旅籠とは、江戸時代に宿場などで武士や一般庶民が利用した宿屋であることは、教科書や時代劇などで皆さんにもお馴染みかと思います。元々「はた」とは馬の餌のこと、「こ」は籠のことを指し、平安時代中期には、馬の飼料を入れて持ち運ぶ旅行用の籠のことを意味していました。

 

これが中世になると、宿駅に人が宿泊できる宿屋が出現して、馬の餌となる馬草を入れた籠を門口にぶら下げ、それを看板としたことから「馬駄餉(だしょう・だこう)」と呼ばれるようになり、後に転じて旅籠屋となったと言われています。こうした歴史があることから、旅籠には旅行中に食物や手回り品などを入れて持ち歩く籠やそれに入れた食物を指すこともあります。

 

旅籠が旅中における食事を提供する宿泊施設としての意味で定着したのは室町時代末期であったと思われます。室町時代には、「木賃宿」と呼ばれる宿泊施設が登場しますが、形式的にはこの木賃宿が発達したものが旅籠だと言われています。これが江戸時代に入り街道が整備されると、宿場ごとに多くの旅籠が開設されるようになりました。当初は領主や役人への宿泊提供が優先されていた旅籠も、社会が安定し諸国物産の流通が増え、公用、商用などの交通量が増加すると、食事のみならず沐浴も可能となり、一般の旅行者への対応も充実していきました。

 

旅籠には、「飯盛女(めしもりおんな)〔飯売女(めしうりおんな)、宿場女郎とも言う〕」とも呼ばれる私娼によるサービスを提供する遊興的な要素を有した「飯盛旅籠(めしもりはたご)〔食売旅籠(めしうりはたご)とも言う〕と、純粋に宿泊だけを旨とする「平旅籠」がありました。品川宿など遊所では圧倒的に飯盛旅籠が多かった一方、箱根や石部(近江国甲賀郡、現在の滋賀県湖南市)のように飯盛旅籠が1軒もなかった宿場もありました。また、旅籠の規模によって「大旅籠」、「中旅籠」、「小旅籠」に分類する方法もありました。その基準は宿場によって異なっており、通常は間口によって区分されていたようです。

 

旅籠の宿泊料金は1泊2食付で1泊200300文、現在の貨幣価値では3,0005,000円程度でした。夕食は、通常1汁2~3菜が標準で、こうした1泊2食付の旅籠の形態は、元禄時代(1688年~1704年)頃から始まったものと言われています。混雑時には相部屋を求められることもあったようで、特に当時往来の少なかった女性の旅客は、難儀したのかもしれません。

 

江戸時代中頃になると、飯盛女を嫌ったり、1人旅をする行商人などから安心して静かに泊まれる宿に対する要求が増えていきます。そこで、各地で旅籠による組合が結成されるようになりました。浪花組(後の浪花溝)では、主要街道筋にお墨付きの優良な旅籠を指定し、加盟宿には目印の看板を掲げさせ、組合に加入している旅人に所定の監察を渡して宿泊の際に提示させるようにしていました。また、『浪花組道中記』や『浪花溝定宿帳』を発行し、各宿場ごとに溝加盟の旅籠や休所を掲載し、道中記として役立つ道案内などの情報を掲載していました。

 

中山道の芦田宿(長野県北佐久郡立科町)や奈良井宿(長野県塩尻市)、薮原宿(長野県木曽郡木祖村)などには、今でも宿泊できる旅籠が現存しているようです。機会があれば、泊まってみたいところです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は大分暖かく感じます。皇居田安門の周りの桜も開花の準備が整っているようで、もうしばらくしたら桜の花と花見客で大賑わいになりそうな雰囲気を感じています。明日は春分の日でお休み、明後日22日から出張で北京に行ってきます。週末を挟んで来週月曜日25日に帰国となりますので、次回の瓦版は来週火曜日26日以降になります。

 

さて、本日は「脇本陣(わきほんじん)」について紹介したいと思います。脇本陣とは、江戸時代に武士や公家の宿泊施設として宿場に設けられたもので、格式は本陣に次ぐものとされていました。

 

1宿1本陣が原則ではあったものの、大名の往来が激しい大きな宿場では本陣が2軒以上あり、その予備として脇本陣が数軒設けられていました。それでも足りない場合は、臨時の仮本陣が宿内の寺院などに置かれることもあったようです。

 

脇本陣の役割は、大きな藩の大名が宿泊する際に本陣だけでは泊まりきれない場合に、家老や奉行などの家臣が泊まったり、複数の藩が同じ宿場に泊まることになった場合に格式が低い大名が宿泊するなど、本陣が使えないときに利用されていました。本陣を利用する際の優先度からいうと、朝廷からの勅使→将軍の名代→大名(格式順)だったようです。

 

本陣が原則として一般客の宿泊が認められいませんでしたが、脇本陣は大名や勅使の利用がないときには、一般客の利用も認められていました(平常時には平旅籠として営業していた)。脇本陣の規模は本陣ほど大きくはありませんでしたが、本陣と同じく宿場の有力者が務め、諸式はすべて本陣に準じて上段の間などもありました。

現存している脇本陣としては、東海道舞坂宿(遠江国、現在の静岡県浜松市)、中山道妻籠宿(信濃国妻籠村、現在の長野県木曽郡南木曽町)、中山道太田宿(美濃国加茂郡、現在の岐阜県美濃加茂市)が公開されています。

 

高見澤

 

おはようございます。先日、ニュージーランドのクライストチャーチで50人もの人が亡くなる銃乱射事件が起きたばかりなのに、今度はオランダのユトレヒトで銃の発砲事件が起こり3人が亡くなっています。なぜこのような悲惨な事件が起きるのか、まさに狂気と言わざるを得ませんが、この地球に生まれた人々の「業」というものなのでしょうか。このような犯罪を撲滅するには、物事の発想を根本から変える必要があるのかもしれません。

 

さて、本日は「本陣(ほんじん)」について紹介したいと思います。横溝正史が書いた推理小説に『本陣殺人事件』がありますが、その本陣のことです。本陣とは、江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、勅使、宮家、公家、幕府役人、門跡、朝鮮通信使など身分の高い旅行者のために指定された宿泊施設のことです。しかし、原則として一般の旅行者を泊めることは許されていませんでした。

 

本陣の起源は、南朝正平18年・北朝貞治2年(1363年)、室町幕府2代将軍・足利義詮が上洛の際に、その宿舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まるといわれていますが、これがそのまま近世にまで続いたとは考えにくいようです。近世初期には、大名たちが宿泊する施設は一定せず、宿駅の上等の家屋が宿舎としてあてられ、それが次第に本陣の役割を果たしていきました。本陣に先行するものとして、御殿や御茶屋などがあったようです。

 

江戸時代における本陣の由来とされているのは、寛永11年(1634年)に3第将軍・徳川家光が上洛の際に、宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役」、「本陣職」に任命したことに始まります。そして、翌寛永12年(1635年)の参勤交代の導入によって制度化されました。

 

本陣は、旅程の都合などを踏まえて指定されていたので、宿泊のほか、小休止などに使われる本陣に指定されるものもありました。宿場町であっても前後の宿間距離が短い場合には本陣が置かれない宿場町があり、逆に同じ宿場町に宿泊する大名が多い場合には複数の本陣が指定されることもありました。また、大名家などが懇意にしている有力者の家を独自に本陣に指定することもあったようです。

本陣には宿泊者から謝礼が払われていましたが、それは必ずしも対価として十分といえるものではなく、コスト的にはかなり赤字だったようです。そのため、幕府は本陣と指定した際には、その家の主人には名字帯刀、門・玄関・上段の間を設けることができる特権を認めるなどのインセンティブを与えていました。また、非常時の逃走の細工や外部からの侵入者防止の設備が設けられている屋敷もありました。

 

こうした幕府からの特権を名誉なこととして歓迎する一方、幕府や定宿としている諸大名から幾ばくの保護や援助があったとはいえ、出費が嵩んで没落する家もありました。特に江戸時代後期には、藩財政の悪化により謝礼の減額や本陣の家業の不振による経営難がより深刻になったようです。

 

大名などが本陣を利用するときには、数日前に関札(せきふだ)が本陣に運ばれ、止宿一両日前にはこれが掲げられ、他の宿泊者は宿泊できなくなりました。本陣が空いていない場合には、追って説明する「脇本陣(わきほんじん)」が使われました。大名の中には、格式ばりを重んじ費用の掛かる本陣を敬遠して、本陣以外に休泊する者もあったようで、幕府はそれに対する禁令を出しています。

 

主要街道の本陣数は、天保14年(1843年)の調査で、東海道が111カ所、中山道が72カ所、日光街道が24カ所となっています。文久2年(1862年)の改革によって参勤交代が形骸化し、更に明治維新によって参勤交代が行われなくなると、本陣は有名無実化してしまいます。そして明治3年(1870年)の明治政府民部省布告により、本陣制度が廃止となりました。尚、東海道草津宿(近江国栗太郡、現在の滋賀県草津市)や甲州街道日野宿(武蔵国多摩郡、現在の東京都日野市)には、本陣が現存しています。

 

高見澤

 

おはようございます。先週、国の委託事業の報告書を提出しました。提出期限が迫る中、残業続きで睡眠も満足にとれず、それが終わったかと思うと、今週は金曜日から来週月曜日まで北京での中国発展ハイレベルフォーラムという国際会議に出席のために中国出張。更には来週火曜日には理事会があり、4月からの新たな年度に向けた事業計画及び予算議決のための資料作りを並行して行わなければなりません。また、3月5日から行われていた中国の国会に相当する全国人民代表大会で、外資企業にとって新たな重要法案「外商投資法」が制定され、会議全体の内容ととものその法律の分析もしなければなりません。息つく暇もなく、多忙な日が続きます。

 

さて、本日から暫くの間は宿場にあった諸々の施設について紹介していきたいと思います。先ずは「問屋場(といやば、とんやば)」について紹介してみましょう。問屋場とは、宿場運営を行うための宿役人が置かれていた事務所で、「駅亭(駅締)」、「伝馬所」などとも呼ばれていました。

 

幕府の公用の旅行者や大名などが宿場を利用する際に、助郷賦課など必要な人馬を用意し、その荷物を次の宿場まで運んだり(人馬の継立)、幕府公用の書状や荷物を次の宿場に届ける継飛脚等の業務を行っていました。

 

これらの業務を円滑に行うために、問屋場には宿場の最高責任者ともいうべき「問屋(といや)」と呼ばれる主宰者がおり、その補佐役として「年寄(としより)」と呼ばれる助役、人馬の出入りや賃銭を記入する「帳付(ちょうづけ)」と呼ばれる事務担当、更には人馬に荷物を振り分ける「馬指(うまさし)」や「人馬指(じんばさし)」と呼ばれる下役がいました。また、参勤交代の大名行列を宿場の出入り口で出迎える「迎役(むかえやく)」を設けていた宿場もありました。

 

問屋場には、通常は交代で詰めていましたが、大名行列など大きな通行があるときは、全員で対応していました。宿場によっては、問屋場が複数設けられていたところもあり、交替で業務を担当していました。

 

明治元年(1868年)、明治政府は問屋場を伝馬所、問屋を取締役と改め、取締役の定員を1駅2名としました。その後、明治3年(1870年)に取締役が廃止され、伝馬所は交通通信担当の官司である「駅逓司(えきていし)」の管轄下に置かれ、明治5年(1872年)に伝馬所を含む宿駅制度が廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は、朝から朝食懇談会があり、瓦版の発信ができないお知らせを失念しており、失礼しました。本日締め切りの日中自動運転協力の調査報告書の作成が切羽詰った状態にもかかわらず、昨日は朝から午後3時ころまで立て続けに会議があり、夕方からは会員企業との会食という作業がまったく捗らない過密スケジュールでした。会食後の夜8時過ぎに職場に戻り、深夜0時過ぎに退勤し、家に着いたのは夜中の1時過ぎ。今朝もメルマガ発信の後は作業にかかります。

 

さて、本日は「宿場」について紹介したいと思います。宿場とは、江戸時代、五街道や脇街道(脇往還)に設置された町場で「宿駅(しゅくえき)」とも呼ばれていました。宿場の役割は主に駅逓事務を取り扱うことで、その宿場を中心に形成された町を「宿場町」と呼んでいます。小学校の歴史の授業で、城を中心に栄えた町を「城下町」、寺院を中心に形成された町を「門前町」と呼び、そしてこの「宿場町」があったことも習ったと記憶しています。

 

駅伝制の成立によって、中継地点として各地に駅家が設けられたことは、すでに説明した通りです。平安時代末期の律令制の弛緩に伴って駅の制度が衰退し、「駅」という言葉も次第に「宿」や「宿場」という言葉に代わっていきました。しかし、駅伝の制度は江戸時代にも引き継がれ、元々駅があった場所を中心に宿場として形成されていきます。

 

慶長6年(1601年)に東海道の整備が始まり、五街道と脇街道、その他の道路へと全国規模で順次整備が拡大していきます。そしてその道路沿いに、一定区間ごとに宿場を設置、宿場町が形成されていきました。

 

宿場では、公用人の馬継立のために定められた人馬を常備し、不足の場合には助郷を徴用するなどして伝馬制が機能するようにしていました。また、公武の宿泊や休憩のための本陣、脇本陣などの施設を置きました。宿場には、幕府から免税措置である「地子免許(じしめんきょ)」、各種給米の支給、拝借金貸与などの特典が与えられるなど、宿場の保護育成に努めていたものの、こうした公用のための労役や業務で利益を上げることは難しいのが実情でした。

 

そこで、一般の旅行者を対象とした旅籠、木賃宿(きちんやど)、茶屋、商店等が設けられ、宿泊、食事、通行、荷物輸送等によって利益を確保する仕組みが出来上がりました。前回紹介した飛脚の中継もこの宿場で行われており、こうした仕組みによって、当時としては驚異的な速さで情報伝達や荷物輸送を行うことができたのです。

 

宿場の主な施設として、問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、茶屋、商店、高札場、枡形(ますがた)、木戸などがありました。これらについては、順次紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝は大分暖かくなりました。皇居北の丸や靖国神社の桜も、開花の準備に入っている気配を伺わせています。この辺りは、これから日本武道館で卒業式や入学式を行う学校もあり、桜の開花と合わせて多くの人で賑わうことでしょう。

 

さて、本日は前回に続いて飛脚を更に紹介してみたいと思います。飛脚が中央と地方との間、あるいは地方と地方との間の情報伝達・輸送を担っていたことは、前回説明した通りです。

 

ですから、江戸時代に入り飛脚が最初に用いられたのは、もちろん江戸幕府の公用のための飛脚です。これを「継飛脚(つぎびきゃく)」と呼んでいました。継飛脚は正式な公儀の飛脚であり、その起源は徳川家康が江戸入府した天正18年(1590年)に遡ると言われています。老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行が使うことを許されていました。慶長6年(1601年)に伝馬制が定めら、各街道の各駅に飛脚用の伝馬が整備され、本格的な運用が始まりました。

 

継飛脚は書状や荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組で宿駅ごとを引き継ぎながら運びました。宿場の問屋に専用の飛脚を常駐させ、宿場には幕府から「継飛脚給米」が支給されていました。この継飛脚の制度が完成するのは寛永10年(1633年)のことです。元禄9年(1696年)の定書では、江戸/京都を通常では45時(90時間)、急ぎで41時(82時間)と定められていましたが、天候や道路状況などにより65時間から80時間ほどで到着していたようです。「御状箱」、すなわち継飛脚の通行は何よりも優先され、一般の往来が規制されるほどで、通常では渡河されない増水した大井川も特別に渡ることが許されていました。

 

各藩の大名も主に国許と江戸の藩邸を結んで走らせた「大名飛脚」を抱えていました。広義では大坂蔵屋敷を結ぶもの、領内の役所内を結ぶものを含む場合もあります。飛脚は各藩の足軽や中間から選抜されることが多かったようです。紀州・尾張両藩が整備した「七里飛脚」や加賀藩の「江戸三度」がその代表的なものです。その他の大名も独自の飛脚をもっていましたが、維持費が嵩むことから民営の飛脚に委託することが多かったようです。

 

継飛脚や大名飛脚は公用に使われるものですから、当然一般の武士や町人は利用することはできません。そこで登場したのが民営の飛脚、「町飛脚(まちびきゃく)」です。飛脚屋や飛脚問屋が飛脚を雇い、広く利用されていました。この制度が始まったのは寛文3年(1663年)のことで、大坂、京都、江戸の三都を中心に発達しました。大坂から毎月2、1222日の三度発したことから「三度飛脚」と呼ばれていました。元禄11年(1698年)に京都で、町奉行が飛脚問屋16軒に対し、毎夕順番に発するようにした「順番仲間」を認可しています。

 

宿場の交通量が増えたことで人馬継立(馬方と馬の交換)が混み合うようになると、延着が増えるようになります。そのため、天明2年(1782年)に江戸の飛脚問屋9軒が宿駅での人馬継立を御定賃銭によって優先的に利用できるよう願い出たことで、幕府はその特権を認めることになりました。この特権を有した飛脚問屋を「定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)」と呼びます。

 

出発地点から目的地まで一貫して一人で運ぶ飛脚を「通飛脚(とおしびきゃく)」、江戸御府内を専門にしていた町飛脚は、状箱に鈴を付けていたので「ちりんちりんの町飛脚」とも呼ばれていました。このほか、金銀を専門に逓走した「金飛脚(かねびきゃく)」、大坂堂島米会所での米相場の動向を地方に伝えることを専らとしていた「米飛脚(こめびきゃく)」などの専門の飛脚がいました。

 

「はやり風十七屋からひきはじめ」という川柳があります。「十七屋」とは江戸日本橋室町にあった飛脚問屋「十七屋孫兵衛」のことで、元禄15年(1702年)に京都の順番仲間が江戸の会所として最初に設置した飛脚問屋です。諸国を行き来する飛脚が、最初にどこからか風邪のウイルスをもらってくるということを揶揄したものです。それだけ、江戸時代には飛脚が頻繁に各地を往来していたことが分かります。明治4年(1871年)、国営の郵便制度の成立によって、この飛脚制度が廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。未曾有の被害をもたらした東日本大震災から昨日で8年。昨日はテレビをつければどのチャンネルでも震災に関する番組が放映されていました。チェルノブイリの例をみれば、そろそろセシウム137やストロンチウム90の影響によると思われる白血病等の患者が急速に増え始める時期でもあります。先日も、競泳の池江璃花子選手が18歳の若さで白血病と診断され、治療を受けているとの報道がありました。1日も早い回復を祈るばかりです。

 

さて、本日は江戸時代の「飛脚」の制度について紹介したいと思います。街道整備の主な目的の一つが、迅速なる情報伝達にあったことは既に述べた通りです。その情報伝達に大きな役割を果たしたのが飛脚と呼ばれる人たちです。

 

そもそも飛脚というのは、信書、金銭、為替、貨物などを馬や自らの足で輸送する職業、或いはその仕事に従事する人を指します。歴史を遡れば、律令時代に重要な書状の受け渡しに「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が使われており、中世鎌倉時代には京と鎌倉を結ぶ「鎌倉飛脚」や「六波羅飛脚」、室町時代には「関東飛脚」と呼ばれる情報伝達制度が整備されていました。こうした制度は、専ら公用として使われていました。

 

これが戦国時代になると、戦国大名が領国の要所要所に関所を設けたため、領国間にまたがる情報伝達は難しくなり、家臣や寺僧、山伏などが飛脚の役割を果たすようになります。ただ、これらは人目を忍んで行われたこともあり、業態化することはありませんでした。

 

本格的に飛脚による輸送や情報伝達が制度化されるのは、やはり江戸時代になってからです。五街道をはじめとする道路や宿場が整備されることによって、飛脚による輸送や情報伝達がスムーズに行われることが可能になったのです。江戸時代の飛脚の交通手段は馬と駆け足です。ご公儀による継飛脚、諸藩が使う「大名飛脚」、大名・武家や町人が利用できる「飛脚屋」や「飛脚問屋」などの制度が確立され、当時の日本国内の重要な通信・輸送手段となっていきました。

 

とはいえ、今のように車や鉄道があるわけではないので、費用的にはかなり高価なものになってしまい、一般庶民がそう頻繁に使うわけにはいきません。また、天候などにも左右されたほか、地方によっては複数の業者を通じて運ばれるため、業者間の連携が円滑に行われず、期日が大幅に遅れることも少なくなかったようです。

 

江戸時代中期から盛んに使われるようになる民間の飛脚問屋では、原則として決められた「定日」に荷物を集荷し、荷物監督である「宰領(さいりょう)」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送していました。宰領は馬に乗り、荷物を付けた馬と馬方を引き連れ、長脇差を帯刀し、道中は指定の「飛脚宿」に宿泊しました。途中、悪天候や事故・事件など天災、人災によって延着、不着、盗難、紛失などのトラブルもありました。

 

江戸と京・大坂を結ぶ飛脚のうち、日数の保証のない最低料金のものを「並便り」と呼んでいました。昼間のみ、しかも駅馬の閑暇を利用して運ぶために、片道で概ね30日を要したといわれています。急を要する場合は、所要10日の「十日限(とおかかぎり)」、6日の「六日限」、「早便り」などの制度を使いました。また、1件のために発する「仕立飛脚」の制度もありましたが、これは正六日限で金3両(現在の価値で384,000円ほど)と、かなり高額だったようです。

 

東海道の交通量が増加すると、2日~3日の遅延が増えてきます。そこで江戸と上方を6日間で走ることを約した「定飛脚(じょうびきゃく)」が登場します。、これを「定六」または「正六」と呼んでいました。そもそも定飛脚は一定区間を日数を定めて往復する飛脚のことを指しています。

 

更に火急の場合には「四日限仕立飛脚」と呼ばれる仕立飛脚が組まれることもあり、江戸/大坂間の料金は金4両2分(現在の価値で576,000円ほど)、最速の2日間で走りきる「正三日限仕立飛脚」の場合は、何と銀700匁(現在の価値で140万円ほど)だったそうです。ちなみに、一番安い並便りの料金は書面1通30文(600円ほど)~100文(3,000円ほど)でした。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、夕方に買い物に出かけた際に降り始めた雨が、今朝も降り続いています。東京では午前中に雨は上がり、晴れ間が見え始めるようです。雨が降っていることから、早朝の電車も空いているのかと思えばそうでもなく、いつもより人が多かったように思えます。朝早く出勤する一番の理由は、混んでいる電車に乗りたくないからなのですが、誰もいないオフィスで静かに情報収集・分析、執筆活動ができるのも魅力的です。

 

さて、本日は街道整備に欠かすことができなかった「伝馬制(てんませい)」について紹介していきたいと思います。伝馬制とは、街道に設置されたそれぞれの宿に一定数の伝馬(公用の人や荷物の継ぎ送りにあてる馬)を常備させ、将軍の朱印状や老中の証文などによって荷物や人々を宿継ぎに輸送した制度です。幕府の公用であれば基本的に無賃、大名や旗本が伝馬を利用する際には幕府が定めた「御定賃銭」と呼ばれる駄賃を宿駅に支払っていました。一般人が利用する場合に支払われる駄賃は「相対賃銭」と呼ばれ、金額は御定賃銭の二倍程度であったようです。

 

この伝馬制の基礎となったのは、古代に制度化されていた「駅伝制(えきでんせい)」または「駅制(えきせい)」、「伝制(でんせい)」と呼ばれる交通制度です。7世紀後半頃には律令制に基づいて中央(都)と地方との間の情報を伝達するシステムとしてこうした交通・通信制度が整備されていました。

 

古代律令制によって設けられていた駅制は、中央と地方との間の相互の緊急情報の伝達を目的としたものです。幹線道路である駅路と駅路沿いに一定の距離ごとに駅家を設け、駅馬を常備しておき、通信連絡係である駅使や官吏の移動に便宜を図っていました。それに対して「伝制」というのは、伝馬とそれを伝えるための伝路と呼ばれる道路からなる制度です。伝制は、使者を中央から地方へ派遣することが主な目的でした。駅路は、中央から地方まで最短距離で到着できるよう計画的に整備された道であったのに対し、伝路は地域間の自然発生的な道路が主体であったとされています。

 

こうして整備が始まった伝馬制ですが、延暦11年(792年)には伝制が廃止され駅制に統一され、その後は駅路中心の伝馬制へと変わっていきます。そして中央が主体となって整備されていた道路整備も、中世戦国時代になると戦国大名による領国内の道路整備へと変化していきました。領国大名は国境に関所や宿駅を設置して警備を行うとともに、関銭と呼ばれる税金を徴収して自らの収入源としていました。また、同盟関係を結ぶ他国大名の両国に通じる道も整備を行っていました。この時に整備された交通網がその後の江戸時代の主要街道として引き継がれています。

 

慶長6年(1601年)、徳川家康が東海道の多くの宿駅に36頭ずつの伝馬を常備させたのが、江戸時代に整備された伝馬制の始まりです。寛永15年(1638年)、幕府は東海道の各宿に定置人馬100100頭、中山道は5050頭〔寛文元年(1661年)に2525頭となるが寛文5年(1665年)に元に戻る〕、日光、奥州、甲州の各街道は2525頭とされました。

 

このように各宿場に伝馬のための人馬を提供するのはそれぞれの宿場であり、「御伝馬役」と呼ばれ、馬役と徒歩役(人足役)がありました。御伝馬役負担は、原則は軒別(屋敷の大小)基準でしたが、城下町では大小間割(おおこまわり)や間口割(まぐちわり)、山間部では間口割、平野部では馬役が持高割(もちだかわり)、徒歩役が軒別割又は小間割となっていました。この江戸時代の夫役(夫役)制度については、また別の機会に紹介したいと思いますが、伝馬役が宿駅の常備人馬で負担できなくなると、近隣の農村にも役が課せられることになっていました。これを「助郷(すけごう)」と呼んでいました。

 

ちなみに、各地に「伝馬町」と呼ばれる地名がまだ残っているところがあります。これは大名が城下に物資の輸送の拠点として伝馬所兼荷受所を置き、荷受問屋が多く集まっていた場所に由来しているようです。東京の日本橋小伝馬町には、昔から繊維問屋や金物問屋が多く集まっていました。

 

また、毎年正月2、3日に開催される箱根駅伝に代表されるリレー形式の長距離走を「駅伝」と呼びますが、これは中継所である駅から駅までを伝える駅伝制にちなんでこう呼ばれているようです。

 

高見澤

 

おはようございます。NHKがまとめたところによると、東日本大震災で大事故を起こした福島第一原子力発電所から放出されている今年1月までの1年間の放射性物質の放出量が、前年と比べて2倍近くになっているとのことです。東京電力では、廃炉作業で一時的に増えたのが原因と思われるが、1時間当たりの放出量は国の基準を大きく下回っているとしていますが、事故からすでに8年が過ぎようとしているにもかかわらず、当初の計画から大幅に遅れ、遅々として進まない廃炉作業、溜りに溜り続ける汚染水など、問題は雪だるま式に増えていく一方です。最終的に、誰がこの責任を取るというのでしょうか?

 

さて、本日は「五街道の整備方針」について紹介したいと思います。日本全国を結ぶ道路の中でも、特に基幹道路として整備された五街道は、徳川幕府の政治的基盤が固まり、平和で経済・社会が安定した時代に相応しく人々の往来や物資の輸送に大きな役割を果たすことになりました。

 

このため、一里(約4キロメートル)を36町として、一里ごとに「一里塚」を設けて移動距離の目安を示し、路傍に並木を植えることを義務付け、道幅を広げて一定間隔で宿場を置くこととしました。宿場には本陣、脇本陣、旅籠などが立ち並び、旅人は道路の整備状況をみてそれぞれの藩の状況判断をすることから、各藩は道路の整備を重視していたと言われています。

 

慶長10年(1605年)の秀忠の命による道路整備では、標準幅は5間(約9メートル)と定められましたが、山間部では状況に応じて2間(約4メートル)~4間(約7メートル)に縮小されていました。1630年頃の『慶長見聞集』には、「街道には眞砂をしき、土のあきまなければ、土くじり(土埃)はいづくをか吹からん、町しづかなり」とあり、路面が砂利や砂で固められていたことが分かります。当時の交通の大半が徒歩であったことから道路の痛みは少なく、メンテナンスは今ほど面倒ではなかったようです。

 

万治2年(1659年)以降、五街道と脇街道は道中奉行の直轄として江戸幕府が直接管理し、それ以外の街道は勘定奉行の管轄とするも、実際の管理は沿道の藩が行っていました。大雨などで道路が大きく破損したときには、道中奉行の指示によって所管の代官や大名が「御普請」を実施、実際の作業は近隣の百姓の自普請という形で行うよう指示が出されていました。幕府は、周辺住民が共同で維持管理する組合の結成を奨励し、日々の道理の維持管理は沿道・近隣の町村が負担する仕組みとなっていて、負担するのは概ね街道から20キロメートル以内の町村と規定されていました。

 

また、軍事や治安、安全への配慮もあって、朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、街道の要所には関所や番所を設けて検問を行っていました。参勤交代が行われるようになって、江戸幕府が特に注意を払っていたのが「入鉄砲出女(いりでっぽうにでおんな)」です。「入鉄砲」といのは、江戸に入ってくる武器の取締りを指し、「出女」とは参勤交代制度で人質として江戸に居住させている諸大名の妻子が江戸から勝手に出ないよう取り締まることです。政治的社会的には比較的安定していた江戸時代ですが、それでも何かと気配りしなければならないことが多かったようです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、夜9時半過ぎに帰宅したころは、まだ雨も降っていませんでしたが、今朝は既に傘が必要な空模様になっています。午前中、大手町にある日経新聞本社に行く要件があり、雨の中の外出に幾分気が滅入っています。それでも雨の有難みは承知しているつもりです。

 

さて、本日は江戸幕府によって整備された「五街道」について紹介したいと思います。江戸時代に入り、徳川幕府による盤石な支配体制が確立して社会が安定してくると、情報伝達や軍事用としての輸送路から、一般庶民の生活のための物資輸送や旅行者用の基礎インフラへとその役割が変わっていきました。また、諸大名の参勤交代のためにも道路整備が必要となっていました。

 

その道路整備の代表的な街道が「五街道」と呼ばれる幕府直轄の幹線道路です。五街道は4代将軍・徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする「東海道」、「日光街道(日光道中)」、「奥州街道(奥州道中)」、「中山道」、「甲州街道(甲州道中)」の5つの街道を指します。これら五街道につながる街道(付属街道)のうち、主要なものを「脇往還」或いは「脇街道」と呼んでいました。五街道とその脇街道によって本州中央部のかなりの地域がつながっており、五街道沿いには原則として天領、親藩、譜代大名が配されて、交通上の重要な場所には関所や番所が置かれていました。

五街道の整備が始まったのは、関ヶ原の戦いの翌年・慶長6年(1601年)からで、徳川家康が全国支配のために順次整備が進んでいきました。慶長8年(1603年)、江戸の平川(現在の日本橋川)に日本橋が架けられ、翌慶長9年(1604年)にその日本橋が五街道の起点と定められます。南北に架けられた日本橋から南へは東海道と甲州街道、北へは日光街道、奥州街道、中山道が伸びていきました。

 

五街道を整備し始めたのは家康、これを基幹街道としたのは2代将軍・秀忠です。整備された順番は①東海道、②日光街道、③奥州街道、④中山道、⑤甲州街道とのことで、五街道の正式名称が定められたのは享保元年(1716年)のことだったようです。次回は五街道の整備方針について紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心では、昨日は太陽が顔を出していましたが、今日の夜から明日にかけてまた雨の予報となっています。冬の間はほとんど雨が降らなかったのですが、ここにきて雨量が増えてきています。また、花粉の飛ぶ量も増えているようで、時々ですが目が痒くなったり、鼻水が出たりします。花粉症というほどの症状ではありませんが、抵抗力が衰えているのかもしれません。

 

さて、本日は「中世の道路整備」について紹介したいと思います。源頼朝によって鎌倉幕府が開かれると、政治の中心が京から鎌倉へと移り、畿内と関東を結ぶ東海道の重要性が増してきます。頼朝は関東支配を拡大し、盤石なものとするために道路整備を積極的に行いました。特に東国武士が「いざ鎌倉」というときに、鎌倉に集結できるよう関東各地と鎌倉を結ぶ「鎌倉街道」が切り開かれました。

 

これが戦国時代に入ると、各地の戦国大名にとって人や物の往来とともに、敵からの防衛が重要になってきます。このため、領内の道路整備が行われるのですが、そこには敵軍の進入を防ぐ手だても講じられることになります。それが領国の境に設けられた関所であり、通行税をとることによって、それがまた戦国大名の一つの収入源になっていたものと思われます。戦国大名が整備した道路で、有名なのが武田信玄の「棒道」です。主な目的は軍事的な輸送で、いわゆる軍用道路というものです。甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の国境である八ヶ岳の南麓から西麓を通る道で、現在でも山梨県北杜市や長野県富士見町では上の棒道、中の棒道、下の棒道の三つの筋が残されており、当時の面影を感じることができます。

 

戦国時代も佳境に入り、織田信長が勢力を伸ばしてくると、信長は全国統一を目指して道路整備を制度的に行っていきます。続く豊臣秀吉も支配地域を拡大するために道路改修や橋梁の整備を進め、戦国大名が設けていた関所を廃止してしまいました。こうした考え方は江戸幕府にも引き継がれ、江戸幕府の下、統一的な街道整備が行われていくのです。

 

おはようございます。昨日降った雨で道路は濡れてはいるものの、今朝は清々しい朝を迎えています。ただ、残業続きで寝不足のせいか、頭がボーっとしている毎日が続いています。

 

さて、本日は「江戸の道路」の話に入る前に、江戸時代以前の古代日本の道路について少し紹介しておきたいと思います。

 

日本で最初に本格的な道路建設が始まったのは5世紀頃だとする記録が「日本書紀」にみられるようですが、実際のところはよく分かっていません。今から5,500年~4,000年前といわれる青森県の三内丸山遺跡では幅12メートルの舗装道路が発見されていることから、紀元前2,000年前の縄文時代にはすでに人の手によって道路作りが行われていたことが認められています。

 

7世紀になると、飛鳥地方に大和政権が誕生したとされ、奈良盆地中央部から飛鳥へ向かう阿部山田道、飛鳥から奈良盆地を北上する平行する3本の上ツ道、中ツ道、下ツ道が作られるとともに、これらに直交し河内方面に向かう横大路、河内から難波に通じる難波大道、これら二つの大路を結ぶ日本最古の官道である竹内街道などが作られました。「日本書記」の推古天皇21年(613年)11月の記述に「難波より京に至る大道を置く」とあるのが日本における道路整備の最初の記述とされており、竹内街道をはじめとするこれらの道路建設だと思われます。

 

7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として「五畿七道(ごきしちどう)」が定められます。これに重要な役割を果たしたのが計画的な道路網の整備でした。大化2年(646年)、幸徳天皇の「改新の詔」により、地方に「国司」、「郡司」が置かれ、中央と地方を結ぶ「駅路」が整備されるようになりました。駅路の全長は6,500キロメートルに及び、30里(約16キロメートル)ごとに駅が設けられ、駅夫・駅馬などの輸送手段が置かれました。駅路は畿内(五畿)を中心に放射状に作られ、特に「七道駅路」が重点的に整備されました。

 

五畿というのは、大和、山城、摂津、河内、和泉の5つの国を指します。現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部です。七道というのは、山陽道、東海道、東山道、山陰道、北陸道、西海道、南海道の7つの路線で、後にこれらの道で結ばれる国の総称としても用いられることになります。このうち、畿内と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部を「大路」、東国へ向かう東海道と東山道を「中路」、その他を「小路」と呼び、それぞれの道の重要性に基づいて使い分けていました。

 

これらの道路の特徴は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなど、できるだけ直線的で平坦になるようにしたため、従来からある集落とは離れた場所を通るようになっていました。中央と地方との直接的な情報連絡を目的として整備されたのが「駅路」という道で、各地方の拠点とを最短経路で直線的に結び、30里ごとに駅家が置かれたのがこの駅路です。駅家に置かれた馬の数は、大路で20頭、中路で10頭、小路で5頭と定められていました。これに対し、「伝路」と呼ばれた道があります。これは、使者の送迎や地方間の情報伝達を目的に整備されたものと思われ、こちらは旧来の自然発生的な道を改良して整備された道のようです。駅路の幅が9~12メートルほどであるのに対し、伝路は6メール6メートルほどであったようです。現在でいえば、駅路が高速道路、伝路が一般道といったところでしょうか。こうして用途が異なった駅路と伝路ですが、次第に伝路は駅路に統合されていくようになりました。

 

一方、奈良時代には、各地に建立された神社や寺院との往来を目的とした高野街道や熊野古道とった信仰の道が生まれました。

 

こうして全国的に整備された道も、武家政治の時代に入ると、また新たな展開をみせるようになります。次回は、中世の道路整備について紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は、昨日からの雨が続いています。今日は終日雨が降るようで、傘が手放せない1日となりそうです。ベトナムのハノイで行われた米朝首脳会談も、結局のところ何も合意することはできずに、物別れに終わったとの報道ですが、実際のところはどうだったのでしょうか? 一方で、カシミール地方を巡るインドとパキスタンの間の紛争も気になるところです。私自身、中国経済、日中経済が専門ですが、グローバル化する経済関係を考えるに、世界経済、世界政治の動きにも気を配らなければなりません。益々忙しい日々が続きそうです。

 

さて、これまでは江戸の火事について、かなり長い時間をかけて紹介してきました。本日からは「江戸の交通」について紹介していきたいと思います。江戸時代の交通といえば、陸路と海路しかありませんでした。今では空路がありますが、当時は空を飛ぶ技術がまだなく、人の移動、モノの輸送は専ら陸路と海路によっていたわけです。

 

先ず陸路の移動、輸送に欠かせないのが道路整備です。広く長い道路を建設することは、生活する上で大変便利ではありますが、防衛という観点でみれば敵の進入を容易にしてしまうので、便利過ぎるというのも問題があります。江戸時代が長きにわたり平和な時代を過ごすことができたのも、大陸国と違って海に守られてきたからだと言っても過言ではありません。

 

戦国時代、甲斐の武田信玄が「棒道」とよばれる軍用道路を八ヶ岳山麓に築き、甲斐国と信濃国との間を軍がスムーズに派遣できるようにしたことは有名ですが、自国の軍が通りやすいということは、逆に他国からの軍も侵略しやすいことを意味しているわけで、戦乱の世ではなかなか道路整備も進まなかったのではないかと思います。

 

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利をおさめ、江戸幕府が開かれることによって徳川政権が安定してきます。江戸と地方を結ぶ街道が整備され、江戸の町の中も縦横無尽に道路が造られていきます。平和で安定した世であったからこそ、日本中を安全に行き交うことができた江戸の交通事情について、しばらくの間みていきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝、5時頃に家を出たときに小雨が降っていましたが、6時少し前に職場に着く頃には雨もほとんど止んでいました。昨日は終日雨が降るなか、友人の告別式参列のために千葉県まで行ってきました。三寒四温の季節、一雨ごとに暖かくなり、そろそろ服装にも戸惑う日が多くなりそうです。

 

さて、これまで長きにわたり江戸の大火をみてきた訳ですが、これら江戸の代表的な大火を何らかの理由を付け、数を絞って称する呼び方があります。なかでもよく知られているのが「江戸の三大大火」です。これについては、すでに瓦版でも紹介していますが、再度おさらいしておきましょう。

 

江戸の三大大火とは、明暦3年(1657年)の「明暦の大火(振袖火事)」、明和9年(1772年)の「明和の大火(目黒行人坂火事)、そして文化3年(1806年)の「文化の大火(丙寅火事、牛町火事)を指します。

 

この三大大火のほかに、「江戸の十大大火」という選び方があるようです。この中には当然上述の三大大火が含まれていることは言うまでもありません。十大大火とされているのは以下の通りです。

① 明暦の大火(振袖火事):明暦3年(1657年)

② 天和の大火(八百屋お七火事):天和2年(1682年)

③ 勅額火事(中堂火事):元禄11年(1698年)

④ 水戸様火事:元禄16年(1703年)

⑤ 小石川馬場火事:享保2年(1717年)

⑥ 明和の大火(目黒行人坂火事):明和9年(1772年)

⑦ 桜田火事:寛政6年(1794年)

⑧ 文化の大火(丙寅火事):文化3年(1806年)

⑨ 文政の大火(神田佐久間町の火事):文政12年(1829年)

⑩ 地震火事:安政2年(1855年)

このうち、桜田火事は記録がほとんど残っていないにもかかわらず十大大火に挙げられており、どのような基準でこの十大大火が選ばれたのかは不明です。

 

このほかにも、「元禄の大火」と呼ばれる元禄年間に発生した3つの大火、すなわち元禄10年(1697年)の大塚善心寺を火元とする火事、勅額火事、水戸様火事の3つの大火を指す呼び方があることは、以前にも紹介した通りです。

 

高見澤

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