東藝術倶楽部瓦版 20190305:古代日本の道路

 

おはようございます。昨日降った雨で道路は濡れてはいるものの、今朝は清々しい朝を迎えています。ただ、残業続きで寝不足のせいか、頭がボーっとしている毎日が続いています。

 

さて、本日は「江戸の道路」の話に入る前に、江戸時代以前の古代日本の道路について少し紹介しておきたいと思います。

 

日本で最初に本格的な道路建設が始まったのは5世紀頃だとする記録が「日本書紀」にみられるようですが、実際のところはよく分かっていません。今から5,500年~4,000年前といわれる青森県の三内丸山遺跡では幅12メートルの舗装道路が発見されていることから、紀元前2,000年前の縄文時代にはすでに人の手によって道路作りが行われていたことが認められています。

 

7世紀になると、飛鳥地方に大和政権が誕生したとされ、奈良盆地中央部から飛鳥へ向かう阿部山田道、飛鳥から奈良盆地を北上する平行する3本の上ツ道、中ツ道、下ツ道が作られるとともに、これらに直交し河内方面に向かう横大路、河内から難波に通じる難波大道、これら二つの大路を結ぶ日本最古の官道である竹内街道などが作られました。「日本書記」の推古天皇21年(613年)11月の記述に「難波より京に至る大道を置く」とあるのが日本における道路整備の最初の記述とされており、竹内街道をはじめとするこれらの道路建設だと思われます。

 

7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として「五畿七道(ごきしちどう)」が定められます。これに重要な役割を果たしたのが計画的な道路網の整備でした。大化2年(646年)、幸徳天皇の「改新の詔」により、地方に「国司」、「郡司」が置かれ、中央と地方を結ぶ「駅路」が整備されるようになりました。駅路の全長は6,500キロメートルに及び、30里(約16キロメートル)ごとに駅が設けられ、駅夫・駅馬などの輸送手段が置かれました。駅路は畿内(五畿)を中心に放射状に作られ、特に「七道駅路」が重点的に整備されました。

 

五畿というのは、大和、山城、摂津、河内、和泉の5つの国を指します。現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部です。七道というのは、山陽道、東海道、東山道、山陰道、北陸道、西海道、南海道の7つの路線で、後にこれらの道で結ばれる国の総称としても用いられることになります。このうち、畿内と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部を「大路」、東国へ向かう東海道と東山道を「中路」、その他を「小路」と呼び、それぞれの道の重要性に基づいて使い分けていました。

 

これらの道路の特徴は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなど、できるだけ直線的で平坦になるようにしたため、従来からある集落とは離れた場所を通るようになっていました。中央と地方との直接的な情報連絡を目的として整備されたのが「駅路」という道で、各地方の拠点とを最短経路で直線的に結び、30里ごとに駅家が置かれたのがこの駅路です。駅家に置かれた馬の数は、大路で20頭、中路で10頭、小路で5頭と定められていました。これに対し、「伝路」と呼ばれた道があります。これは、使者の送迎や地方間の情報伝達を目的に整備されたものと思われ、こちらは旧来の自然発生的な道を改良して整備された道のようです。駅路の幅が9~12メートルほどであるのに対し、伝路は6メール6メートルほどであったようです。現在でいえば、駅路が高速道路、伝路が一般道といったところでしょうか。こうして用途が異なった駅路と伝路ですが、次第に伝路は駅路に統合されていくようになりました。

 

一方、奈良時代には、各地に建立された神社や寺院との往来を目的とした高野街道や熊野古道とった信仰の道が生まれました。

 

こうして全国的に整備された道も、武家政治の時代に入ると、また新たな展開をみせるようになります。次回は、中世の道路整備について紹介したいと思います。

 

高見澤