東藝術倶楽部瓦版 20190306:中世の道路網整備

 

おはようございます。東京都心では、昨日は太陽が顔を出していましたが、今日の夜から明日にかけてまた雨の予報となっています。冬の間はほとんど雨が降らなかったのですが、ここにきて雨量が増えてきています。また、花粉の飛ぶ量も増えているようで、時々ですが目が痒くなったり、鼻水が出たりします。花粉症というほどの症状ではありませんが、抵抗力が衰えているのかもしれません。

 

さて、本日は「中世の道路整備」について紹介したいと思います。源頼朝によって鎌倉幕府が開かれると、政治の中心が京から鎌倉へと移り、畿内と関東を結ぶ東海道の重要性が増してきます。頼朝は関東支配を拡大し、盤石なものとするために道路整備を積極的に行いました。特に東国武士が「いざ鎌倉」というときに、鎌倉に集結できるよう関東各地と鎌倉を結ぶ「鎌倉街道」が切り開かれました。

 

これが戦国時代に入ると、各地の戦国大名にとって人や物の往来とともに、敵からの防衛が重要になってきます。このため、領内の道路整備が行われるのですが、そこには敵軍の進入を防ぐ手だても講じられることになります。それが領国の境に設けられた関所であり、通行税をとることによって、それがまた戦国大名の一つの収入源になっていたものと思われます。戦国大名が整備した道路で、有名なのが武田信玄の「棒道」です。主な目的は軍事的な輸送で、いわゆる軍用道路というものです。甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の国境である八ヶ岳の南麓から西麓を通る道で、現在でも山梨県北杜市や長野県富士見町では上の棒道、中の棒道、下の棒道の三つの筋が残されており、当時の面影を感じることができます。

 

戦国時代も佳境に入り、織田信長が勢力を伸ばしてくると、信長は全国統一を目指して道路整備を制度的に行っていきます。続く豊臣秀吉も支配地域を拡大するために道路改修や橋梁の整備を進め、戦国大名が設けていた関所を廃止してしまいました。こうした考え方は江戸幕府にも引き継がれ、江戸幕府の下、統一的な街道整備が行われていくのです。

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