おはようございます。昨晩、夜9時半過ぎに帰宅したころは、まだ雨も降っていませんでしたが、今朝は既に傘が必要な空模様になっています。午前中、大手町にある日経新聞本社に行く要件があり、雨の中の外出に幾分気が滅入っています。それでも雨の有難みは承知しているつもりです。
さて、本日は江戸幕府によって整備された「五街道」について紹介したいと思います。江戸時代に入り、徳川幕府による盤石な支配体制が確立して社会が安定してくると、情報伝達や軍事用としての輸送路から、一般庶民の生活のための物資輸送や旅行者用の基礎インフラへとその役割が変わっていきました。また、諸大名の参勤交代のためにも道路整備が必要となっていました。
その道路整備の代表的な街道が「五街道」と呼ばれる幕府直轄の幹線道路です。五街道は4代将軍・徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする「東海道」、「日光街道(日光道中)」、「奥州街道(奥州道中)」、「中山道」、「甲州街道(甲州道中)」の5つの街道を指します。これら五街道につながる街道(付属街道)のうち、主要なものを「脇往還」或いは「脇街道」と呼んでいました。五街道とその脇街道によって本州中央部のかなりの地域がつながっており、五街道沿いには原則として天領、親藩、譜代大名が配されて、交通上の重要な場所には関所や番所が置かれていました。
五街道の整備が始まったのは、関ヶ原の戦いの翌年・慶長6年(1601年)からで、徳川家康が全国支配のために順次整備が進んでいきました。慶長8年(1603年)、江戸の平川(現在の日本橋川)に日本橋が架けられ、翌慶長9年(1604年)にその日本橋が五街道の起点と定められます。南北に架けられた日本橋から南へは東海道と甲州街道、北へは日光街道、奥州街道、中山道が伸びていきました。
五街道を整備し始めたのは家康、これを基幹街道としたのは2代将軍・秀忠です。整備された順番は①東海道、②日光街道、③奥州街道、④中山道、⑤甲州街道とのことで、五街道の正式名称が定められたのは享保元年(1716年)のことだったようです。次回は五街道の整備方針について紹介します。
高見澤