東藝術倶楽部瓦版 20190311:旅人への便宜を図った「伝馬制」

 

おはようございます。昨日、夕方に買い物に出かけた際に降り始めた雨が、今朝も降り続いています。東京では午前中に雨は上がり、晴れ間が見え始めるようです。雨が降っていることから、早朝の電車も空いているのかと思えばそうでもなく、いつもより人が多かったように思えます。朝早く出勤する一番の理由は、混んでいる電車に乗りたくないからなのですが、誰もいないオフィスで静かに情報収集・分析、執筆活動ができるのも魅力的です。

 

さて、本日は街道整備に欠かすことができなかった「伝馬制(てんませい)」について紹介していきたいと思います。伝馬制とは、街道に設置されたそれぞれの宿に一定数の伝馬(公用の人や荷物の継ぎ送りにあてる馬)を常備させ、将軍の朱印状や老中の証文などによって荷物や人々を宿継ぎに輸送した制度です。幕府の公用であれば基本的に無賃、大名や旗本が伝馬を利用する際には幕府が定めた「御定賃銭」と呼ばれる駄賃を宿駅に支払っていました。一般人が利用する場合に支払われる駄賃は「相対賃銭」と呼ばれ、金額は御定賃銭の二倍程度であったようです。

 

この伝馬制の基礎となったのは、古代に制度化されていた「駅伝制(えきでんせい)」または「駅制(えきせい)」、「伝制(でんせい)」と呼ばれる交通制度です。7世紀後半頃には律令制に基づいて中央(都)と地方との間の情報を伝達するシステムとしてこうした交通・通信制度が整備されていました。

 

古代律令制によって設けられていた駅制は、中央と地方との間の相互の緊急情報の伝達を目的としたものです。幹線道路である駅路と駅路沿いに一定の距離ごとに駅家を設け、駅馬を常備しておき、通信連絡係である駅使や官吏の移動に便宜を図っていました。それに対して「伝制」というのは、伝馬とそれを伝えるための伝路と呼ばれる道路からなる制度です。伝制は、使者を中央から地方へ派遣することが主な目的でした。駅路は、中央から地方まで最短距離で到着できるよう計画的に整備された道であったのに対し、伝路は地域間の自然発生的な道路が主体であったとされています。

 

こうして整備が始まった伝馬制ですが、延暦11年(792年)には伝制が廃止され駅制に統一され、その後は駅路中心の伝馬制へと変わっていきます。そして中央が主体となって整備されていた道路整備も、中世戦国時代になると戦国大名による領国内の道路整備へと変化していきました。領国大名は国境に関所や宿駅を設置して警備を行うとともに、関銭と呼ばれる税金を徴収して自らの収入源としていました。また、同盟関係を結ぶ他国大名の両国に通じる道も整備を行っていました。この時に整備された交通網がその後の江戸時代の主要街道として引き継がれています。

 

慶長6年(1601年)、徳川家康が東海道の多くの宿駅に36頭ずつの伝馬を常備させたのが、江戸時代に整備された伝馬制の始まりです。寛永15年(1638年)、幕府は東海道の各宿に定置人馬100100頭、中山道は5050頭〔寛文元年(1661年)に2525頭となるが寛文5年(1665年)に元に戻る〕、日光、奥州、甲州の各街道は2525頭とされました。

 

このように各宿場に伝馬のための人馬を提供するのはそれぞれの宿場であり、「御伝馬役」と呼ばれ、馬役と徒歩役(人足役)がありました。御伝馬役負担は、原則は軒別(屋敷の大小)基準でしたが、城下町では大小間割(おおこまわり)や間口割(まぐちわり)、山間部では間口割、平野部では馬役が持高割(もちだかわり)、徒歩役が軒別割又は小間割となっていました。この江戸時代の夫役(夫役)制度については、また別の機会に紹介したいと思いますが、伝馬役が宿駅の常備人馬で負担できなくなると、近隣の農村にも役が課せられることになっていました。これを「助郷(すけごう)」と呼んでいました。

 

ちなみに、各地に「伝馬町」と呼ばれる地名がまだ残っているところがあります。これは大名が城下に物資の輸送の拠点として伝馬所兼荷受所を置き、荷受問屋が多く集まっていた場所に由来しているようです。東京の日本橋小伝馬町には、昔から繊維問屋や金物問屋が多く集まっていました。

 

また、毎年正月2、3日に開催される箱根駅伝に代表されるリレー形式の長距離走を「駅伝」と呼びますが、これは中継所である駅から駅までを伝える駅伝制にちなんでこう呼ばれているようです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月11日 09:06に書いたブログ記事です。

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