東藝術倶楽部瓦版 20190313:「はやり風十七屋からひきはじめ」-「飛脚」その②

 

おはようございます。今朝は大分暖かくなりました。皇居北の丸や靖国神社の桜も、開花の準備に入っている気配を伺わせています。この辺りは、これから日本武道館で卒業式や入学式を行う学校もあり、桜の開花と合わせて多くの人で賑わうことでしょう。

 

さて、本日は前回に続いて飛脚を更に紹介してみたいと思います。飛脚が中央と地方との間、あるいは地方と地方との間の情報伝達・輸送を担っていたことは、前回説明した通りです。

 

ですから、江戸時代に入り飛脚が最初に用いられたのは、もちろん江戸幕府の公用のための飛脚です。これを「継飛脚(つぎびきゃく)」と呼んでいました。継飛脚は正式な公儀の飛脚であり、その起源は徳川家康が江戸入府した天正18年(1590年)に遡ると言われています。老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行が使うことを許されていました。慶長6年(1601年)に伝馬制が定めら、各街道の各駅に飛脚用の伝馬が整備され、本格的な運用が始まりました。

 

継飛脚は書状や荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組で宿駅ごとを引き継ぎながら運びました。宿場の問屋に専用の飛脚を常駐させ、宿場には幕府から「継飛脚給米」が支給されていました。この継飛脚の制度が完成するのは寛永10年(1633年)のことです。元禄9年(1696年)の定書では、江戸/京都を通常では45時(90時間)、急ぎで41時(82時間)と定められていましたが、天候や道路状況などにより65時間から80時間ほどで到着していたようです。「御状箱」、すなわち継飛脚の通行は何よりも優先され、一般の往来が規制されるほどで、通常では渡河されない増水した大井川も特別に渡ることが許されていました。

 

各藩の大名も主に国許と江戸の藩邸を結んで走らせた「大名飛脚」を抱えていました。広義では大坂蔵屋敷を結ぶもの、領内の役所内を結ぶものを含む場合もあります。飛脚は各藩の足軽や中間から選抜されることが多かったようです。紀州・尾張両藩が整備した「七里飛脚」や加賀藩の「江戸三度」がその代表的なものです。その他の大名も独自の飛脚をもっていましたが、維持費が嵩むことから民営の飛脚に委託することが多かったようです。

 

継飛脚や大名飛脚は公用に使われるものですから、当然一般の武士や町人は利用することはできません。そこで登場したのが民営の飛脚、「町飛脚(まちびきゃく)」です。飛脚屋や飛脚問屋が飛脚を雇い、広く利用されていました。この制度が始まったのは寛文3年(1663年)のことで、大坂、京都、江戸の三都を中心に発達しました。大坂から毎月2、1222日の三度発したことから「三度飛脚」と呼ばれていました。元禄11年(1698年)に京都で、町奉行が飛脚問屋16軒に対し、毎夕順番に発するようにした「順番仲間」を認可しています。

 

宿場の交通量が増えたことで人馬継立(馬方と馬の交換)が混み合うようになると、延着が増えるようになります。そのため、天明2年(1782年)に江戸の飛脚問屋9軒が宿駅での人馬継立を御定賃銭によって優先的に利用できるよう願い出たことで、幕府はその特権を認めることになりました。この特権を有した飛脚問屋を「定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)」と呼びます。

 

出発地点から目的地まで一貫して一人で運ぶ飛脚を「通飛脚(とおしびきゃく)」、江戸御府内を専門にしていた町飛脚は、状箱に鈴を付けていたので「ちりんちりんの町飛脚」とも呼ばれていました。このほか、金銀を専門に逓走した「金飛脚(かねびきゃく)」、大坂堂島米会所での米相場の動向を地方に伝えることを専らとしていた「米飛脚(こめびきゃく)」などの専門の飛脚がいました。

 

「はやり風十七屋からひきはじめ」という川柳があります。「十七屋」とは江戸日本橋室町にあった飛脚問屋「十七屋孫兵衛」のことで、元禄15年(1702年)に京都の順番仲間が江戸の会所として最初に設置した飛脚問屋です。諸国を行き来する飛脚が、最初にどこからか風邪のウイルスをもらってくるということを揶揄したものです。それだけ、江戸時代には飛脚が頻繁に各地を往来していたことが分かります。明治4年(1871年)、国営の郵便制度の成立によって、この飛脚制度が廃止されました。

 

高見澤