東藝術倶楽部瓦版 20190315:街道の中継所-「宿場」

 

おはようございます。昨日は、朝から朝食懇談会があり、瓦版の発信ができないお知らせを失念しており、失礼しました。本日締め切りの日中自動運転協力の調査報告書の作成が切羽詰った状態にもかかわらず、昨日は朝から午後3時ころまで立て続けに会議があり、夕方からは会員企業との会食という作業がまったく捗らない過密スケジュールでした。会食後の夜8時過ぎに職場に戻り、深夜0時過ぎに退勤し、家に着いたのは夜中の1時過ぎ。今朝もメルマガ発信の後は作業にかかります。

 

さて、本日は「宿場」について紹介したいと思います。宿場とは、江戸時代、五街道や脇街道(脇往還)に設置された町場で「宿駅(しゅくえき)」とも呼ばれていました。宿場の役割は主に駅逓事務を取り扱うことで、その宿場を中心に形成された町を「宿場町」と呼んでいます。小学校の歴史の授業で、城を中心に栄えた町を「城下町」、寺院を中心に形成された町を「門前町」と呼び、そしてこの「宿場町」があったことも習ったと記憶しています。

 

駅伝制の成立によって、中継地点として各地に駅家が設けられたことは、すでに説明した通りです。平安時代末期の律令制の弛緩に伴って駅の制度が衰退し、「駅」という言葉も次第に「宿」や「宿場」という言葉に代わっていきました。しかし、駅伝の制度は江戸時代にも引き継がれ、元々駅があった場所を中心に宿場として形成されていきます。

 

慶長6年(1601年)に東海道の整備が始まり、五街道と脇街道、その他の道路へと全国規模で順次整備が拡大していきます。そしてその道路沿いに、一定区間ごとに宿場を設置、宿場町が形成されていきました。

 

宿場では、公用人の馬継立のために定められた人馬を常備し、不足の場合には助郷を徴用するなどして伝馬制が機能するようにしていました。また、公武の宿泊や休憩のための本陣、脇本陣などの施設を置きました。宿場には、幕府から免税措置である「地子免許(じしめんきょ)」、各種給米の支給、拝借金貸与などの特典が与えられるなど、宿場の保護育成に努めていたものの、こうした公用のための労役や業務で利益を上げることは難しいのが実情でした。

 

そこで、一般の旅行者を対象とした旅籠、木賃宿(きちんやど)、茶屋、商店等が設けられ、宿泊、食事、通行、荷物輸送等によって利益を確保する仕組みが出来上がりました。前回紹介した飛脚の中継もこの宿場で行われており、こうした仕組みによって、当時としては驚異的な速さで情報伝達や荷物輸送を行うことができたのです。

 

宿場の主な施設として、問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、茶屋、商店、高札場、枡形(ますがた)、木戸などがありました。これらについては、順次紹介していきたいと思います。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月15日 10:52に書いたブログ記事です。

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