東藝術倶楽部瓦版 20190319:大名・勅使等の宿泊施設-「本陣」

 

おはようございます。先日、ニュージーランドのクライストチャーチで50人もの人が亡くなる銃乱射事件が起きたばかりなのに、今度はオランダのユトレヒトで銃の発砲事件が起こり3人が亡くなっています。なぜこのような悲惨な事件が起きるのか、まさに狂気と言わざるを得ませんが、この地球に生まれた人々の「業」というものなのでしょうか。このような犯罪を撲滅するには、物事の発想を根本から変える必要があるのかもしれません。

 

さて、本日は「本陣(ほんじん)」について紹介したいと思います。横溝正史が書いた推理小説に『本陣殺人事件』がありますが、その本陣のことです。本陣とは、江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、勅使、宮家、公家、幕府役人、門跡、朝鮮通信使など身分の高い旅行者のために指定された宿泊施設のことです。しかし、原則として一般の旅行者を泊めることは許されていませんでした。

 

本陣の起源は、南朝正平18年・北朝貞治2年(1363年)、室町幕府2代将軍・足利義詮が上洛の際に、その宿舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まるといわれていますが、これがそのまま近世にまで続いたとは考えにくいようです。近世初期には、大名たちが宿泊する施設は一定せず、宿駅の上等の家屋が宿舎としてあてられ、それが次第に本陣の役割を果たしていきました。本陣に先行するものとして、御殿や御茶屋などがあったようです。

 

江戸時代における本陣の由来とされているのは、寛永11年(1634年)に3第将軍・徳川家光が上洛の際に、宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役」、「本陣職」に任命したことに始まります。そして、翌寛永12年(1635年)の参勤交代の導入によって制度化されました。

 

本陣は、旅程の都合などを踏まえて指定されていたので、宿泊のほか、小休止などに使われる本陣に指定されるものもありました。宿場町であっても前後の宿間距離が短い場合には本陣が置かれない宿場町があり、逆に同じ宿場町に宿泊する大名が多い場合には複数の本陣が指定されることもありました。また、大名家などが懇意にしている有力者の家を独自に本陣に指定することもあったようです。

本陣には宿泊者から謝礼が払われていましたが、それは必ずしも対価として十分といえるものではなく、コスト的にはかなり赤字だったようです。そのため、幕府は本陣と指定した際には、その家の主人には名字帯刀、門・玄関・上段の間を設けることができる特権を認めるなどのインセンティブを与えていました。また、非常時の逃走の細工や外部からの侵入者防止の設備が設けられている屋敷もありました。

 

こうした幕府からの特権を名誉なこととして歓迎する一方、幕府や定宿としている諸大名から幾ばくの保護や援助があったとはいえ、出費が嵩んで没落する家もありました。特に江戸時代後期には、藩財政の悪化により謝礼の減額や本陣の家業の不振による経営難がより深刻になったようです。

 

大名などが本陣を利用するときには、数日前に関札(せきふだ)が本陣に運ばれ、止宿一両日前にはこれが掲げられ、他の宿泊者は宿泊できなくなりました。本陣が空いていない場合には、追って説明する「脇本陣(わきほんじん)」が使われました。大名の中には、格式ばりを重んじ費用の掛かる本陣を敬遠して、本陣以外に休泊する者もあったようで、幕府はそれに対する禁令を出しています。

 

主要街道の本陣数は、天保14年(1843年)の調査で、東海道が111カ所、中山道が72カ所、日光街道が24カ所となっています。文久2年(1862年)の改革によって参勤交代が形骸化し、更に明治維新によって参勤交代が行われなくなると、本陣は有名無実化してしまいます。そして明治3年(1870年)の明治政府民部省布告により、本陣制度が廃止となりました。尚、東海道草津宿(近江国栗太郡、現在の滋賀県草津市)や甲州街道日野宿(武蔵国多摩郡、現在の東京都日野市)には、本陣が現存しています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月19日 08:51に書いたブログ記事です。

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