東藝術倶楽部瓦版 20190327:江戸庶民の安宿-「木賃宿」

 

おはようございます。北京に行っている間に、東京の桜の開花を告げる靖国神社の基準桜が花をつけ、我が職場の周りにある千鳥ヶ淵の桜が満開を迎えようとしています。今週末が見頃とのことで、多くの人で賑わうことでしょう。大学などの卒業式も武道館で行われており、袴姿の女性が桜の下を歩く姿を見ると、学生時代が懐かしく感じられます。

 

さて、本日は「木賃宿(きちんやど)」について紹介したいと思います。木賃宿とは、江戸時代においては、各宿場で、客の持参した食料を煮炊きする薪代だけを受け取って宿泊させた宿のことです。薪の代金のことを「木賃(きちん)」、或いは「木銭(きせん)」といい、「木銭宿(きせんやど)」とも呼ばれていました。

 

古来、庶民が旅をする際には野宿が一般的でしたが、野宿から旅籠に移る過渡期の宿泊所として、鎌倉時代に木賃宿の形態が生まれたといわれています。元亀年間(1570年~1573年)から慶長年間(1593年~1615年)のころの庶民の旅は、干飯(ほしいい)や米、大根漬けなどを携行して、宿泊所では湯をもらうだけのことでした。その湯を沸かす燃料代(薪代)を支払う必要があり、それが木賃として支払われる仕組みでした。

 

旅人が馬をつれている場合、湯の使用量は人よりも馬の方が多かったようで、慶長16年(1611年)の幕府法令では、人に対する木賃は銭3文、馬は6文と規定されていました。後のこの差は徐々に縮まっていったようです。また、寛文5年(1665年)には、主人に対する木賃は16文、従者は6文とされましたが、慶応2年(1866年)には主人と従者との差は廃止されました。

 

木賃宿の形式から、次第に「木賃(銭)米代宿泊制」へと発展する場合もありました。これは旅人が宿泊所が用意した米を買って自炊し、その米代と薪代を支払うもので、この場合、旅人は食料を持参する必要はありませんでした。そして、交通量の増大とともに、これが飲食を供し入浴も可能となる旅籠への発展していくのでした。

 

とはいえ、木賃宿が消滅したわけではありません。江戸時代後期には、大道商人、助郷人足、雲助、日雇い稼ぎなどの零細庶民が宿泊する施設として利用されており、「御安宿」、「雲助宿」、「日雇宿」などとも呼ばれていました。天保年間(1830年~1844年)には、旅籠の宿代は木賃宿の5倍、木賃宿の場所は宿場のはずれにあったということです。この形式の宿泊施設は明治以降も存続し、屋根銭、布団代を支払う宿のことを指していました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月27日 09:00に書いたブログ記事です。

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