東藝術倶楽部瓦版 20190402:法令・通達の周知徹底を図った「高札場」

 

おはようございます。昨日、来月5月1日からの新天皇の即位に合わせて変わることになる新たな元号の名称が「令和(れいわ)」と決まったことが発表されました。これまでの中国の古典からではなく、日本の古典の一つである『万葉集』に由来する元号になったわけですが、こうした慣例を打ち破って決められたことに、どのような判断が働き、何を意味しているのかは、後になってみないと分からないことでしょう。日本が独自の考えで決め行動することは、決して悪いことではありません。中国から伝来した元号も、今世界で使われているのは日本のみとなっています。日本独自の精神を大切にしてきたいものです。

 

さて、本日は各宿場にも設けられていた「高札場(こうさつば)」について紹介したいと思います。高札場とは、幕府や領主が定めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などの通達事項を記した「高札(こうさつ、たかふだ)」を掲げる決められた場所を指します。

 

高札は、具体的には表題、本文、年月日、発行主体を木の札に記し、それを人目に付くよう一段高い場所に置くなどしており、雨が降っても文字が滲まないよう屋根を設けている場所もありました。このように、支配者側の法令や通達を民衆に周知させる方法は昔からあり、これもまた中国から伝来してきたものと思われます。日本での起源は定かではありませんが、延暦元年(782年)には、太政官符に官符の内容を官庁や往来に掲示し、民衆に告知する旨の命令が出されたことが記されているようです。

 

その後、武家政治に入ってからもこの高札による通達制度が採用されていましたが、これを全国的な制度として整備されるようになったのは、江戸時代になってからです。江戸幕府のみならず、諸藩もこの高札制度を採用していました。高札制度は、ただ単に幕府や領主の法令や通達を民衆に周知させるのみならず、法令・通達の正当性や幕府・領主の権威・存在感の誇示、更には民衆の遵法精神の涵養を図ることができたものと思われます。

 

江戸幕府は、往来の多い地点や関所、港、大橋の袂、町や村の入り口・中心部などの目立つ場所に高札を掲げる高札場を設置し、諸藩にもこれに倣うよう厳しく命じていました。代表的な高札場としては江戸日本橋、京都三条大橋、大坂高麗橋、金沢橋場町、仙台芭蕉辻などが挙げられます。また、宿場においても数多く設置され、各宿場間の里程測定の拠点ともされていました。

 

現在でも、各地に「札ノ辻」という地名が残っています。東京都港区の田町駅の近くの第一京浜(国道15号線)と三田通りが交差する交差点付近もその一つです。江戸時代、ここも高札場であったことは有名です。江戸には日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋(すじかいばし)内、高輪木戸、半蔵門外の6カ所が大高札場とされ、さらに35カ所の高札場があったといわれています。

 

高札や高札場に対する管理は厳格で、高札場には竹や丸太で組んだ囲いである矢来(やらい)をめぐらし、石垣や芝土居(しばどい)を築くなどして、厳重に管理されていました。移転や破壊、落書きはもちろんのこと、高札の文字が不鮮明になった時でも、領主の許可なく「墨入れ」と呼ばれる書き直しはできませんでした。幕府や諸藩では、高札の修繕や新設、高札場の維持・管理のために「高札番」という役職を設けていました。

 

高札は民衆への法令・通達の周知徹底が目的でしたので、その文面には一般の法令では使われない平易な仮名交じりや仮名文が用いられていました。法律の出版が厳しく禁じられていた江戸時代ですが、高札に掲げらた法令に関しては「万民に周知の事」との理由で出版が許されており、高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていたようです。

 

高札の中でも、特定の相手や事柄を対象として制定された特別法を記したものとして「制札(せいさつ)」と呼ばれる高札がありますが、実際の運用上は厳密に区別されてはいなかったようです。この高札の制度の廃止が決定したのは、明治7年(1874年)のことです。

 

高見澤