東藝術倶楽部瓦版 20190408:五街道としての「東海道」

 

おはようございます。昨日、日本では一部の府道県、政令指定都市の長や議会議員を決める統一地方選挙が行われました。争点となっていた大阪都構想を掲げた大阪府知事・大阪市長のダブル選挙では、予想通り維新の会が勝利しました。一方、野党が共闘して与野党一騎打ちの戦いとなった北海道知事選では与党が勝利するなど、結果は地方によってまちまちだったようです。夏の参議院選を控え、与野党の攻防が激しさを増すことになると思いますが、いずれが勝つにせよ、この先、日本がよくなることはあるのでしょうか?

 

さて、本日は五街道の「東海道」について紹介したいと思います。以前にも説明した通り、慶長6年(1601年)に徳川家康が五街道整備の方針を掲げ、五つの街道と宿場制度を制定することによって、街道としての東海道が誕生することになりました。慶長6年に始まった東海道の整備は徐々に進められていき、寛永元年(1624年)の庄野宿の設立によって、東海道が一応完成することになります。

 

東海道は、一般的には江戸の日本橋から京の三条大橋に至る街道で、その間には53カ所の宿場、いわゆる「東海道五十三次」を設置し、箱根と新居(あらい)〔今切(いまぎれ)関所〕に関所を設けました。その距離490キロメートル余りで、この後整備される山間部を通る中山道に比べ40キロメートルほど短くなっています。現在の国道1号線、25号線、163号線にほぼ沿ったルートです。五十三次は、具体的には以下の通りです(日本橋、三条大橋は五十三次には含まれていません)。

武蔵:[日本橋(江戸)]-品川-川崎-神奈川-保土ヶ谷-〔4宿〕

相模:戸塚-藤沢-平塚-大磯-小田原-箱根-〔6宿〕

伊豆:三島-〔1宿〕

駿河:沼津-原-吉原-蒲原-由比-興津-江尻-府中-鞠子-岡部-藤枝-島田-〔12宿〕

遠江:金谷-日坂-掛川-袋井-見附-浜松-舞坂-新居-白須賀-〔9宿〕

三河:二川-吉田-御油-赤坂-藤川-岡崎-池鯉鮒-〔7宿〕

尾張:鳴海-宮(熱田)-〔2宿〕

伊勢:桑名-四日市-石薬師-庄野-亀山-関-坂下-〔7宿〕

近江:土山-水口-石部-草津-大津-〔5宿〕

山城:[三条大橋(京)]

 

東海道には、人の通行を阻む大きな河川が何本もありました。六郷川(多摩川)、馬入(ばにゅう)川(相模川)、富士川、天竜川には船渡しによる渡河が行われていましたが、大井川、安倍川、酒匂(さかわ)川では江戸幕府により船渡しが禁止されており、川越人足と呼ばれる歩行渡しによる渡河が行われていました。これは江戸城防衛という軍事上の理由が最も大きなものと言えますが、大井川は川床に砂礫層が堆積し、橋脚杭を深く打ち込むことができず、安全な橋がかけることができないということも理由の一つであったようです。雨で水位が上昇すると、「川止め」と呼ばれる渡河の禁止が命じられました。

 

このほかの大きな難所としては、宮から桑名までの七里(約28キロメートル)を船で渡る「七里の渡し」があります。東海道唯一の海上路であり、天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する難所の一つでした。この七里の渡しが始められたのは元和2年(1616年)のことで、ここを渡るには6時間余りを有したようです。海上を避ける迂回路として、佐屋街道(佐屋路、東海道佐屋回り)と呼ばれる脇街道(脇往還)がありましたが、宮宿や桑名宿は船渡場として賑わい、旅籠数では東海道における第1位、第2位の規模を誇っていました。

 

また、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われるように、「箱根八里」も東海道の難所の一つです。箱根八里は、小田原宿と箱根宿までの四里と、箱根宿から三島宿までの四里を合わせたものです。本来、箱根峠越えの箱根湯本からのルートは、湯坂道と呼ばれる鷹巣山、浅間山、湯坂山の尾根筋を通る鎌倉時代から続く道筋でしたが、江戸時代には、旅人が水を得やすいように湯坂道南側の谷筋に経路を通る須雲川道(すくもがわみち)へと変わりました。

 

慶長9年(1604年)、街道の幅員を5間とし、街道沿いに並木を植え、一里を36町と決め、一里ごとに一里塚を設け、各駅の駄賃を定めました。寛永10年(1633年)には、伝馬、継飛脚の制が定められ、各宿駅に人夫100人、馬100匹を常備する「百人百匹の制」を整備し、幕臣や大名などの往来に供しました。天明3年(1783年)、百人百匹の中から公用として3020匹を留め置き、平時は7080匹をその他の用務に供する「人馬七八遣の法」が行われます。

 

以上述べてきたように、東海道は日本橋から五条大橋までの五十三次が一般的に知られていますが、実は、江戸幕府は西の拠点を大坂まで一体化して整備を進めていたので、こちらを加えて本来の東海道とする考え方もあります。この場合、東海道は京都中心部に入らず、大津宿の西側の追分から山科盆地を南西に向かい、京都東山を越えて伏見城下町を経て淀川沿いに進むことになります。その後、石清水八幡宮の手前で淀川・木津川を渡り、淀川左岸を大坂に向かい、大坂高麗橋に至るルートです。この部分は「京街道(大坂街道)」と呼ばれる道です。ここを通ると途中の宿駅は4カ所あり、併せて「東海道五十七次」、総距離は575キロメートルになります。途中の4宿は以下の通りです。

山城国:伏見宿-淀宿-枚方宿-〔3宿〕

河内国:守口宿-〔1宿〕

摂津国:[大坂(高麗橋)]

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年4月 8日 10:43に書いたブログ記事です。

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