おはようございます。昨日かなり強く降っていた雨も上がり、雨上りの清々しい朝を迎えています。昨日は雨の中、昼はFテレビ局の国際取材部の記者との会食、夜は中国政治協商会議元副主席一行との会食があり、雨に濡れながらの移動でしたが、いずれも中身のある会食となりました。
さて、本日は「日光の脇街道」ついて紹介してみたいと思います。前回の日光街道の紹介のところで、日光山に徳川将軍家が参詣する際に、日光街道ではなく、日光街道の脇街道を利用することが一般的であったと述べましたが、江戸から日光に至るにはいくつかのルートが用意されていました。
その代表的な脇街道が「壬生通り(みぶどおり)」です。壬生通りは、日光街道の小山宿の北側にある喜沢追分で日光街道から分岐し、壬生宿、楡木(にれぎ)宿、鹿沼(かぬま)宿、文挟(ふばさみ)宿などを経て、今市宿で再び日光街道に合流する道です。日光街道の西側を通ることから、「日光西街道」とも呼ばれていました。宿場の数は小山と今市を除いて7宿あり、小山から今市までは12里27町(約50キロメートル)と、日光街道より1里10町(約5キロメートル)短かったことから、日光に行く際にはよく利用されていたようです。
慶安4年(1651年)に亡くなった三代将軍・家光の遺骸を江戸から日光に改葬する際に壬生通りを通ったこともあり、壬生街道は道中奉行の管轄下に置かれるようになったといわれています。徳川将軍の公式な日光への参拝ルートは、往路は日光街道、復路は壬生通りとされていたようです。
壬生通りと共に、徳川将軍家の日光社参の専用道路として使われていた脇街道が「日光御成道(にっこうおなりみち)です。中山道の本郷追分から分岐して北上し、岩淵宿、川口宿、岩槻宿を経て幸手宿手前の上高野で日光街道に合流することになります。日光御成道は、元々は中世以来の「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」として、「奥大道(おくだいどう)」或いは「奥州街道(おうしゅうかいどう)」と呼ばれていたそうです。
元和3年(1617年)4月、家康の遺骸が駿河の久能山から日光に移された際に、二代将軍・秀忠がこの日光御成道を使って日光に向かったのが最初だといわれています。寛永期(1624年~1644年)以降、将軍が日光社参にこの道を利用するのが慣例となり、日光御成道と呼ばれ、道中奉行の管轄下に置かれました。本郷追分から幸手で日光街道に合流するまで、その距離は12里30町(約43キロメートル)、置かれた宿場は岩淵宿、川口宿、鳩ケ谷宿、大門宿、岩槻宿の5宿です。
武蔵国八王子から日光までを3泊4日で結ぶ総距離40里(約156キロメートル)の道で、「日光脇往還」と呼ばれる脇街道がありました。江戸時代以前は主に軍用路として使われていた道でしたが、八王子千人同心が日光勤番を勤める際に、八王子と日光の間を通行する道路として整備されたものです。このため「日光千人同心街道」或いは「日光火之番街道」とも呼ばれていました。そのルートは甲州街道の横山宿先の八王子・千人町から多摩川を渡って拝島宿に入り、二本木宿、坂戸宿、松山宿、吹上宿、館林宿を通って天明宿(下野国佐野)に至ります。その先は、「日光例弊使街道(にっこうれいへいしかいどう)」、壬生通り、日光街道を通って日光東照宮に向かうことになります。拝島宿から天明宿まで、両起点を除いて13宿ありました。
もう一つ、「日光例弊使街道(にっこうれいへいしかいどう)」と呼ばれた脇街道があります。これは、徳川家康の没後、朝廷は天皇の代理として、毎年神への捧げものである幣帛(へいはく)を奉納する「例弊使(れいへいし)」と呼ばれた勅使を日光東照宮に派遣しており、その例弊使が通った道ということで、日光例弊使街道と呼ばれていました。例弊使は、京都から中山道を下り、上野国の倉賀野(現在の群馬県高崎市)から太田宿(上野国)、天明宿、富田宿、栃木宿、合戦場宿、金崎宿(いずれも下野国)を経て楡木宿に出て、そこから壬生通りと合流して日光坊中へと至っていました。倉賀野宿から楡木宿まで、両起点宿を除いて13宿、距離にして23里1町(約90キロメートル)ありました。
例弊使が日光に到着するのは毎年4月15日で、翌朝東照宮に幣帛を奉納した後、帰路は宇都宮から千住を経て江戸に入り、将軍に謁見してから東海道を通って京に戻っていました。家康の霊柩が日光山に改葬されたのが元和3年(1617年)で、例弊使が日光に遣わされるようになったのは正保3年(1646年)又は正保4年(1647年)からと言われ、慶応3年(1867年)まで続いています。日光例弊使街道が道中奉行支配になったのは明和元年(1764年)のことでした。
高見澤