東藝術倶楽部瓦版 20190415:蝦夷地開拓にも役立った「白河以北の奥州街道」

おはようございます。まずまずの天気に恵まれたこの週末でしたが、昨夜から降り始めた雨が今朝も少し残っている中での出勤となりました。いつも歩く道では、桜の花びらが歩道に落ちて雨に濡れている状態で、これから夏に向かって一気に暖かくなる陽気を感じています。コートなしで歩いてきましたが、少し汗ばんでしまいました。

 

さて、本日は「白河以北の奥州街道」について紹介したいと思います。前回、五街道としての奥州街道ということで、下野国宇都宮宿から磐城国白河宿までを紹介しましたが、この白河宿以北の延長部分も奥州街道の一部分、脇街道として位置付けられていました。脇街道ですから、当然その管轄は道中奉行になります。奥州街道のほか、「陸羽(りくう)街道」、「江戸海道」、「松前道」、「外が浜道」などと呼ばれる場合もあったようです。

 

白河宿よりは、岩代国郡山宿、二本松宿、福島宿、陸前国仙台宿、陸中国一ノ関宿、花巻宿、陸奥国三戸宿、野辺地宿を経て青森宿までの82宿、更に陸奥国油川宿、三厩(みんまや)を経て、最終的には蝦夷地の松前宿、箱館宿までの5宿を合わせて計87宿ありました。その距離ははっきりした数字は分かりませんが、当時の奥州街道のルートに沿って、現在の東北自動車道と八戸自動車道、一般道、青森自動車道を使って調べると、白河-青森間が約540キロメートル、青森-函館間が約170キロメートル、合計約710キロメートルと、かなり長い距離となっていました(全行程約827キロメートルという説もあります)。

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白河関を越えて陸奥国に入り、陸奥国を縦に貫く道は、阿武隈川の谷を越えて北上し、福島県と宮城県の県境にある厚樫(あつかし)山(阿津賀志山)から国府であった多賀城に達し、そこから奥羽山脈の東麓を北上して平泉に出て、北上川沿いに北進して蝦夷地に達するもので、昔から東山道、中世には奥大道と呼ばれ、近世まで基本的には変わることなく受け継がれてきました。

 

羽州街道の合流する岩代国桑折(こおり)宿以南の通行量は多かったようで、江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通や連絡に使われていました。文政4年(1821年)の記録によると、奥州街道を通過する大名は37藩あったということです。それが江戸中期以降は、出羽三山、松島、平泉などへの参詣や一般の旅行客、蝦夷地開発のための往来が増え、更に幕末になると蝦夷地防衛のための往来が多くなっていきました。

 

古来、都から遠く離れ、何かと不便で不明なところが多かった東北地方ですが、世の中が安定し、人の往来が増えることで開発が進み、新たな文化的生活が営めるようになったのも、またユートピア江戸ニッポンの誇れるところなのかもしれません。

 

高見澤

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