東藝術倶楽部瓦版 20190416:五街道に次ぐ重要な街道-「水戸街道」

 

ているようで、火災の状況はまだよく分からず、2000年近い歴史を誇るノートルダム寺院と多くの芸術作品の行方が心配されるところです。パリを代表する遺産の一つが失われることは、パリ市民、フランス国民、ひいては世界の人々にとっても残念な災害として、歴史に刻まれることでしょう。

 

さて、本日は奥州街道の白河以北を除く、奥州街道に続く脇街道について紹介したいと思います。今回紹介するのは「水戸街道」、「羽州街道」、「米沢街道」の3街道です。先ずは水戸街道からです。

 

水戸街道は「水戸道中」とも呼ばれ、武蔵国(足立郡)千住宿から下総国松戸宿、取手宿、常陸国土浦宿などを経て水戸に至る20宿(千住、水戸を含む)、2931町(約117キロメートル)の距離で、2泊3日の行程でした。江戸日本橋から千住までは日光街道・奥州街道と同じ道程をたどり、水戸街道は千住から分岐するので、千住を起点として数えられていました。葛飾の新宿と松戸宿の間に流れていた江戸川には「金町松戸関所」が置かれ、江戸防衛のために架橋がなされず、渡し船によって対岸に渡る仕組みになっていました。水戸街道は、江戸側からみれば水戸街道ですが、水戸側からみた場合には「江戸街道(江戸道中)」と呼ばれていたようです。

 

水戸街道の水戸から以北は「岩城相馬(いわきそうま)街道」又は「岩城街道」と呼ばれ、水戸街道と合わせて「浜街道(明治以降は「陸前浜街道」)」と呼ばれていました。日光街道・奥州街道の脇街道として五街道に次ぐ重要な街道に位置付けられており、千住宿から松戸宿までは道中奉行支配にありました。

 

というのも、水戸は徳川御三家の水戸徳川家が治める藩であり、水戸徳川家は参勤交代が義務付けられていない江戸常駐の「定府(じょうふ)大名」でした。このため、水戸家家臣などは国許である水戸と当主が居住する江戸との間で頻繁に連絡をとる必要があったのです。水戸徳川家の勢力拡大により、水戸街道の整備は大いに進み、五街道の混雑を避けるために、23家の大名が参勤交代時にこの水戸街道を利用したといわれています。この数は東海道、奥州街道、中山道に次ぐものでした。

 

次回は羽州街道について紹介したいと思います。

 

高見澤