東藝術倶楽部瓦版 20190417:奥州街道と並ぶ東北二大街道-「羽州街道」

 

おはようございます。東京都心もかなり暖かくなりました。先週の寒さがうそのように、今週は気温がかなり上がっています。そういう意味では、春の暖かさを十分楽しまないうちに、一気に夏になってしまう寂しさも感じられます。中国駐在中は、春と秋は2週間もなく、暖房を付けた翌日から冷房が必要になるくらい、寒暖の差が激しかったことを思い出します。春夏秋冬をそれぞれ存分に楽しむことができた日本の四季は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか?

 

さて、本日は奥州街道の脇街道の一つ、「羽州街道」について紹介したいと思います。羽州街道は、奥州街道の宿場町、陸奥国桑折(こおり)宿(現在の福島県伊達郡桑折町)の北側、北桑折で分岐し、北西に向かい小坂、金山の二つの峠を越えて出羽国上山(かみのやま)に出て、そこから山形宿、横手宿、久保田宿(秋田) 、大館宿、陸奥国弘前宿を経て、再び奥州街道油川宿に合流するルートです。ただ、他の多くの街道と同じように、江戸時代には統一された名称はなく、地域や進行方向によって「小坂通り」、「最上道」、「秋田道」、「下筋街道」、「碇ケ関(いかりがせき)街道」、「佐竹道」など、様々な呼び方をされていたようです。

 

宿場の数は本宿が58宿(62宿という説もある)と言われていますが、時代により変化や二つの宿が半月ごとに交替した「合宿」の制度もあり、正確な数ははっきりしていません。また、本宿のほかに宿場と宿場の間に置かれた「間宿(あいしゅく)」もありました。この羽州街道の全長は約497キロメートルといわれ、上山藩、山形藩、庄内藩など13の藩が参勤交代に利用するなど、奥州街道とともに東北の二大街道とされていました。

 

羽州街道が整備されたのは、慶長から寛永期(1596年~1644年)ころとされ、途中の出羽六郷宿から綴子(つづれこ)宿にかけてを久保田宿を経由する「下街道」と、角館(かくのだて)・阿仁(あに)宿を経由する「上街道(阿仁街道、大覚野〔だいかくの〕街道)」 に分かれていましたが、羽州街道の本道は下街道とされていました。また、当初は山形から笹谷街道を経て仙台・松前道に達していましたが、元和8年(1622年)に久保田(秋田)藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)が上山経由の山中七ケ宿街道を調査し、明暦元年(1655年)以降このルートが本筋になりました。久保田宿から弘前宿の間も、寛文2年(1662年)以降、大間越(おおまごし)・鰺ケ沢(あじがさわ)の日本海沿い(後の大間越街道)から大館・碇ケ関の山道に代わりました。

 

羽州街道は、諸大名の参勤交代のほか、産業開発、領国支配、物資輸送(商品流通)の道としても大いに活用されていました。

 

高見澤